導火線


 誰だったんだろう。
 どこから来て、どこへ行ってしまったのだろう。
 優一は、病室の窓から外を眺めた。
 夕闇がすべてを煙らせる薄暮、黄昏の時刻。誰とすれ違った
かも判らなくなるから「誰(た)そ彼(かれ)」、すなわち「たそがれ」
時と言うのだそうだ。
「誰、だったんだろう」
 また、来るだろうか。
 考えると、じんと躰の奥が熱くなった。
 また、来てくれるだろうか。

               ◇ ◆ ◇

「お疲れ様。今日のプログラムは厳しかったのに、よく頑張った
ね」
 病室まで車椅子を押して来た男が言った。以前の理学療法士
と交代で優一の担当になって、ちょうど一年になる。
 20代半ばと、療法士としてはまだ経験が浅いが、その分仕事
熱心で、新しいリハビリ法を聞けば、積極的にプログラムに取り
入れようとする。
 優一は微笑を返した。
「最近、体のバランスが取りやすくなった気がするんです。
結果が出ると、モチベーションも上がりますよね」
 ありがとうございます、と頭を下げると、療法士は照れたよう
に笑い、「無理はしないよう」言い置いて、病室を出て行った。
 さて。
 優一は、壁の時計を見上げた。3時45分。あと一時間もすれば、
弟の京介が、部活を終えて訪ねて来る。
 それまでに、「宿題」を終えてしまおう。
 入院生活が長い優一にとって、「宿題」とは学校のそれではな
い。
 前日放映されたサッカーの試合を録画しておき、編集して京介
に渡す。部活や勉強で、そうそうテレビなどチェックしていられ
ない弟のために、優一が自分から始めた「宿題」だ。
 昨夜は、イングランド・プレミアリーグ。来月のファイナルに
向けて、今一番の盛り上がりをみせているだけに、なかなか面白
い試合展開だった。京介も喜ぶだろう。
 車椅子からベッドに移動したところで、記録用のメディアを
切らしていたことを思い出した。
 確か、キャビネットに買い置きがあったはずだ。
 備え付けのキャビネットは、ドア脇にある。ベッドからほんの
二、三歩の距離だが、優一にとっては遠い。
 もう一度、車椅子に戻ろうとした時だった。どんな弾みかスト
ッパーが外れ、車椅子が後ろに滑った。
「あっ!」
 支えを失い、優一は床に転げ落ちた。
「痛た……」
 したたか打ち付けてしまった肘を擦りながら、恨めしい気持ち
で車椅子を見上げる。
 しくじった。この姿勢から一人で椅子によじ上るのは骨が折れ
る。かといって、ナースコールにも手が届かない。
 時間がかかっても、自力で這い上がるしかないだろう。
 ベッドに手を掛けた途端、
「大丈夫ですか」
 声がして、優一は頭上を振り仰いだ。
 いつの間に入って来たのか、少年が一人、立っていた。オレン
ジ色のバンダナを着け、雷門中の制服を纏っている。
 少年は、優一の傍らに膝をつくと、訊ねた。落ち着いた、耳ざ
わりのいい声だった。
「あの、手、貸しましょうか」
「……あ、はい」
 すっと差し出しかけた手が、止まった。
「ええと、こういう時は、どうすればいいのかな。すみません、
やったことがないので教えてもらえますか」
 確かに、介助は慣れていない人間には難しい。優一は、ベッド
を指した。
「そこに上がりたいから、膝を貸してもらえますか。
こう、立てて」
 膝を台にして、体を浮かせたところで、腰に腕を回して持ち上
げてもらえば、楽に上がれる。
 説明すると、「判りました」と、すぐに少年は片膝を立てた。
 十七歳の優一に対して、少年は小柄だった。弟の京介と比べて
も、十センチは小さく見える。支えきれるか不安だったが、制服
の膝に手を置いて、それが意外にもがっしりと筋肉質なことに
驚いた。
 少々の運動で付く筋肉ではない。毎日、一定量以上の運動を
続けることで鍛えた体だ。
 優一の腰に、腕が回った。抱き寄せられる格好になって、どき
りとする。
 彼の肩に押し当てた頬が、熱かった。自分の熱なのか、彼の熱
なのかも判らない。怪我をしてから、日々繰り返してきたことな
のに、何故今日に限って、こんなに意識しているのだろう。
「じゃ、持ち上げますね」
 声が、薄いパジャマを通して、肌に伝わる。
 その心地良さに驚き、そんな自分にまた驚いた。
 「せーの」で、ぐっと引き上げる。
 優一の体重が掛かっても、重心は揺らがなかった。そろりと
優一をベッドに下ろし、体を離す。
 一瞬、寂しいような心もとないような、奇妙な感覚に襲われ
て、優一は無理に笑顔を浮かべた。どうかしている。
「ありがとう。助かったよ。君、雷門中の生徒だよね。その制服」
「はい。ご存知ですか」
「うん。俺の弟も、雷門中だから」
 ぱっと笑顔になった。陰気な病室で、そこだけ陽が差したよ
うだった。
「そうなんだ。何年生ですか」
「一年」
「じゃあ、入学したばっかりだ。俺は二年だから、まだ知らな
いかな」
 二年生なら、京介も知らないだろう。サッカー部なら、話は
別だが。
「ところで、どうしてこんなところに?友達のお見舞いか何
か?」
 どう見ても本人は健康そうだから、誰かを訪ねて来たのだろ
うと見当を付けたのだが、「そのう……」と少年は頭を掻いた。
「実は、病院の前で友達を見つけて、気になって追いかけて来
たんだけど、見失っちゃって。探していたんです」
「そう。ナースステーションに行って頼めば、放送で呼び出し
てくれるよ」
「いえ、そこまで切羽詰って探してるわけじゃないので。──
あ」
 少年の目が、枕元の雑誌にとまった。毎月買っている、月刊
サッカー誌だ。
「もう新しい号、出てたんだ」
「君も読んでるの」
「はい。サッカーやってるんで」
 優一は少年を見直した。サッカー部なのだろうか。だとした
ら、京介を知っているかもしれない。
「雷門中サッカー部?」
 目が広がった。
「どうして雷門中って……あ、制服か」
 学生服の胸元を摘み、にこりと笑う。 
「サッカー、好きなんですね」
「大好きだよ。怪我をする前は、弟相手によく練習していた」
 笑顔につられて、つい余計なことまで口走ってしまった。
 普段なら決して言わない。言えば、相手が気を使うと判って
いるからだ。


                           (後編へ続く


2011.12.5
イナGOの受ナンバーワンは、優一兄さんです。
『くれない彼岸』の鬼島さんと、優一受の話で盛り上がっていて、
辛抱堪らずやってしまいました(笑)イナイレとイナGOのクロスです。