江戸ポルカ 

                〜 2 〜


 何だったんだ。
 背の高い、黒い打掛け姿が暖簾の向うに消えるのを、呆然と
見送りながら、三志郎は思った。
 何だったんだ、『あれ』は。
 騒ぎは終いだとばかりに、集まっていた野次馬が三々五々、
散って行く。ぽつんと一人取り残されても尚、三志郎は動かな
かった──動けなかった。
 たった今目にしたものが、未だ飲み込みきれずにいる。
 楼台から覗いた姿に、まず驚いた。
 銀色の髪なんて、初めて見た。銀みたいな白、ではない。
それなら、奉公先のご隠居とか、お客の年寄りにだっている。
そうではなくて、まさに銀色だ。
 それから、あの目。
 紅だった。ひんやりと見下ろす、紅い瞳。
 三志郎は、改めて目の前に聳える店を眺めた。
 一階の半分は朱塗りの格子で、その左に店への入口がある。
暖簾は、海老茶に白で染め抜いた六つ丁子。屋号の崩し文字は
読めないが、仕事で時折出入りしているから、知っている。
寝井戸屋。
 手代の一人から、あそこは陰間茶屋なんだと教えられた。
 ──男が男を買う場所さ。あそこ芳町は、芝居小屋の
    市村座とか中村座の裏ッ側だからな。まだ駆け出しの
    芸人が、体売って金稼いでんだよ。ま、場所が裏なら、
    事情も裏ってことだ。
 おお、今上手いこと言ったぞ俺、と手代は一人で喜んだが、
その後、子供に何てことを教えるんだと番頭から大目玉を食ら
って、小さくなっていた。
 そんなわけで、三志郎も子供ながら、芳町の茶屋の事情は
大体判っているし、実際、見目の良い男たちも何人も見た。
 だが、『あれ』は違う。全然、違う。
 聞いたばかりの名を、口に出して呟いた。
「……フエ」
 見た瞬間に、目が離せなくなった。
 不思議な生き物。
 そうだ。その表現が一番合っている。不思議で、綺麗な生き
物だ。
 以前、別の手代に連れて行ってもらった祭で、見世物小屋に
入ったことがある。その時のことを思い出した。
 一見普通なのに、突然にゅうっと首が伸びる女とか、人語を
叫ぶ猿とか、怖いものもいっぱいいた。
 だが、中には、綺麗なのもいた。
 すごく優しい声で歌う、異国の女の顔をした鳥や、巨大な水
槽の中を泳ぐ、長い髪の人魚。
 胸がどきどきして、もっと近くで見たくなる、この感じはあ
の時に似ている。
 でも──と、三志郎は首を傾げた。
 やっぱり、少し違う気がする。初めて見るものに興奮して胸
が高鳴った、それだけではない。
 もっと見ていたかった。けれど、相手にじっと見られると、
何かこう居心地の悪いような、目を逸らしたいような、妙な
気分がした。
「そういえば……」
 両掌に、目を落とす。
 妙なことといえば、もう一つ、ある。
 あの時、確かにこの腕の中に、フエは落ちた。
 それなのに──。
「おはよう、三志郎!」
「うおっ!」
 後ろから、どすんと背中を小突かれた。決して強い力ではな
かったが、考え事をしていたせいで反応が遅れ、三志郎は二、
三歩よろけた。
「何すんだよ!……ああ、ロンドンか」
 振り返ると、見慣れた友人の顔があった。
 ロンドンというのは、勿論あだ名だ。本名は以前聞いた気が
するが、よく覚えていない。


                              続く
                  


2007.3.10
茶屋の名前を『寝井戸屋』にしてみましたよ(笑)
そしてロンドンも出しました。この後、他の子達も個魔の方々も
総出演予定です。