江戸ポルカ  〜 1 〜


 何となく目を逸らすことが出来ず、なし崩しに彼と見詰め合って
しまった不壊は、ふと、視界の端に妙なものを捉えた気がして、
そちらへ目を移した。
 『それ』は、子供から二メートルほど離れた、向かいの店先
だった。
 何の変哲もない、そこそこに流行っている団子屋だ。今は朝
も早い時刻なので、流石に暖簾は出ていないが、中ではもう
人が立ち働いているらしく、表の引き戸が細く開いていた。
 ──何だ?
 何かがおかしい。
 昨夜までは感じなかった違和感があった。
 もう少しよく見れば判るだろうか、と身を乗り出したのが運の
尽き。みしりと音がして、支えにしていた窓の桟が根元から
折れた。
「……しまった!」
 どこかで、叫び声が上がる。
 このボロ茶屋が!と胸中悪態を吐いたが、もう遅い。
 楼台の三階から、不壊は落ちた。
 咄嗟に受け身を取ろうとしたが、大仰な前帯と打ち掛けが
邪魔をしてそれも侭ならない。
 仕方が無い。
 舌打ち一つ、不壊はくるりと身を丸めた。瞳が赤く煌く。
 内なるものは外へ──外なるものは内へ。
 見ていた者からは判らないほど、ほんの刹那の出来事だった。
 まさに地面に激突する、その瞬間、不壊の身体は重力に逆ら
った。後れ毛が舞い上がり、路上の砂埃が、小さな渦を巻く。
 宙に浮いた状態で、体勢を立て直して着地する──筈だった、
の、だが。
 尻の下にあったのは、地面ではなく、二本の腕だった。そして、
子供の声。
「あ、あ、危ねェっ……!」
 ぎょっとして見下ろすと、先刻の子供がいっぱいに両腕を伸
ばし、這いつくばっていた。不壊は、彼の腕の上に落ちたのだ。
 すぐ傍に、彼が抱えていた桶が空の中身を見せて転がってい
る。
「……何やってんだ、お前」
「何って、いきなり落ちて来たからさ……いてて……ん?」
 子供が、妙な顔をした。まずい。不壊は、素早く立ち上がっ
た。
「怪我は、していないか?」
 尋ねられて、初めて我に返ったらしい。むくりと体を起こす
と、子供は自分の両手をしげしげと眺めた。
「う……うん。平気みたいだ」
「そうか」
 その時、茶屋の入口から「ちょっと!」と甲高い声が上がっ
た。40をいくつか過ぎた、小太りの女がすっ飛んで来る。
 不壊は小さく溜息を吐いた。よりにもよって厄介なのに見咎
められたものだ。女は、茶屋の遣り手だった。
「あんた、朝っぱらから一体何をやってんだい!」
 目が吊り上がり、元々険しい貌が更に険しさを増している。
 気付けば、早朝だというのに、不壊と子供の周りは既に人
だかりになっていた。
 茶屋の陰間が、いきなり往来に落っこちて来たのだ。騒ぎ
にならないわけがない。
「まだお寝みのお客さんもおいでだってのに、まったくあんた
と来たら……おや?」
 不壊の背後に、座り込んだままの子供を見つけ、遣り手は
眉を顰めた。
「何だい、その子は」
 いずれ茶屋と関わりのある店の小僧なのだろうが、台所廻
りとなると、顔見知りは飯炊きに女中、それにせいぜい番頭く
らいのものだろう。遣り手が知らないのも無理はない。
 怪訝そうな遣り手に「何でもない」と片手を振り、不壊は
茶屋の中へと戻りかけた。
 途端、
「あのっ、あのさ!」
子供が立ち上がった。足を止めた不壊に、呼び掛ける。
「俺、三志郎っていうんだ。あんたは?」
 肩越しに振り返ると、彼はやけに真剣な顔つきで拳を握り
締め、突っ立っていた。頬に、薄く赤みが差している。
 聞いてどうする、という問いを不壊は飲み込んだ。
 これだから、子供は嫌いだ。
「……不壊」
 フエ、と子供──三志郎が呟くのを聞きながら、不壊は今度
こそ、六つ丁子の暖簾をくぐった。


                            2へ続く


2007.3.2
いっそ遣り手婆を、ねいどにしたかった…ちえっ。
(そうしたら陰間茶屋の主は鬼仮……)