江戸ポルカ U


                〜13〜


 元の世界に戻ってからの二日間を、三志郎は、ただぼんやり
と過ごした。
 勿論、大晦日まで休みのない瓢屋はいつにも増して忙しく、
仕事は山のようにあったから、朝から晩まで、体だけは休む間
もなく働いていた。
 だが、寝る前や、目が覚めてすぐ、食事時、あるいは単調な
仕事の最中など、ふと緊張が緩んだ瞬間、意識の隙間で『それ』
は立ち上がり、三志郎を悩ませた。
 妖同士の戦い。
 その光景は、鮮やかな音と感触、臭いまでも伴って、当分忘
れられそうになかった。
 もしかしたら、このまま十年、二十年後も、こうしてはっきり
と覚えているのかもしれない。
 そう考えると、身震いがした。
 生臭い空気と、それを貫く妖たちの咆哮。
 肉が裂ける音。
 生温かい、妖の血の感触。
 不壊に連れられ、人間界──真夜中の寝井戸屋へ戻って来た
三志郎がまずしたことは、全身に浴びた血を洗い流すことだっ
た。
 何をどう言い含めたのか、禿たちに不壊が部屋まで運び込ま
せた大量の湯で、何度も何度も手と顔を洗い、髪を拭ったが、
それでもまだ臭いは残っている気がしたし、液体の感触は薄れ
もせず、今もぬらぬらと三志郎にこびりついている。
 夜明け前に寝井戸屋を出て、三志郎は瓢屋へ戻った。
 不壊は少し休んで行くようにと言ったが、断った。
 一人になりたかったのだ。
 妖の本性──と正人は言った──を見たことで、妖たちを嫌
悪する気持ちが湧いたわけではない。
 まして、不壊を遠ざけるつもりはない。
 ただ、一人になりたかった。
 店先の掃除をしながら、箒を持つ手を止め、時折自分の掌を
眺めた。
 その手が、撃盤を掴んだ。撃符を取り、妖を呼び出した。
 あの時漸く、『撃符使い』とは何なのか、判った気がする。
 しかし、判った途端、動けなくなった。
 互いを傷付け合い、食い合う妖たちを前にして、三志郎は
慄然とした。
 あんなことが、許されていいわけがない。
 仲間を救うために、その仲間を傷付けることなど、誰が考え
るだろう。
 傷ついた一角に、思わず「引け」と口走っていた。
 が、三志郎の制止を聞かず、一角は戦い続けた。
 きっと、一角が正しい。
 一度始まってしまった戦いは、どちらかが勝ち、どちらかが
負けるまで、終わることはない。それが本物の戦というものだ。
 もし、三志郎の命令どおり、途中で矛先を収めてしまったら、
流した血は意味をなくしてしまう。
 勝たなければ、意味がないのだ。
 勝たなければ、妖たちは戻らず、不壊も解放されない。勝っ
て、この手で不壊を自由にしてやるのだと、自分は大見得を切
ったではないか。
 それでも、迷う自分がいる。
 傷付くと判っていて、妖を呼び出し、戦わせることが、どう
しても出来ない。
 瓢屋に戻ってからというもの、撃盤はおろか、撃符にも触っ
ていない。どちらも、小僧部屋の押入れの、行李の底に仕舞い
込んであった。
 情けなかった。


                              (続く)
   


2008.2.14
バレンタインなので、更新〜。
でも、どうせなら、三不壊を絡ませたかった(涙)
春までもう少し……です。