江戸ポルカ U


〜 11〜


 流れ落ちた汗が沁みて、痛い。目を開けていられない。
 まだだ。あと、少し。あと少しで、妖の螺旋は終わる。
「こいつで……最後だ!」
 最後の一枚が、手の中に収まった。一際重い衝撃が来
て、よろめく。汗で、ずるりと足裏が滑った。
「しまった!」
 落ちる、と覚悟した時、素早く腕が伸びて来て、抱き
とめられた。不壊だった。
 汗みどろの三志郎を見下ろし、にやりと笑う。
「これくらいで吹っ飛ばされてんじゃねェぞ。兄ちゃん
は、こいつらを操る撃符使いなんだからよ」
「判ってるって……!」
 笑い返そうとした顔が、強張った。不壊の肩越しに、
見覚えのある妖を、見たのだ。
 長い黒髪と、大陸風の衣裳。
 青年の姿の妖が、雷光が残る暗い空を背景に、立っ
ていた。いや、『立って』はいない。彼の足元には、何も
ない。
 三志郎たちのいる屋根から、二丈(約六メートル)ばかり
も離れた空中に、妖は浮いていた。
「炎輪!」
 三志郎が叫んだのと、不壊が振り向いたのは、同時
だった。
 炎輪の手から放たれた炎の塊が、未だ動けない三志郎
と不壊を襲う。
 駄目だ。このままでは、二人ともやられる。
「逃げろ、不壊!」
 不壊は、逃げなかった。
 横顔に笑みを浮かべたまま、ついと半身を捻った。虫でも
払いのけるように、長い袂をひと振りする。それだけで、炎
は水を浴びせられたように、一瞬にして掻き消えた。
「すげェ……」
 三志郎は、腕の痛みも忘れて、不壊に見入った。
 以前にも、三志郎を守るために、不壊がその能力の
一端を見せたことはあったが、その時より凄い。明らかに
力が増している。
 不壊が言った。
「個魔の役目は、片割れである人間を守ることだからな。
こんなのは、造作もないことだ。……そうだよな?」
 くるりと背後を振り返り、呼び掛ける。
「判っていて、やったんだろう?炎輪を使って鎌をかけ
るような真似はやめて、さっさと出て来たらどうなん
だ?」
 炎輪の姿がぼやけ、撃符に戻った。すぅっと風に乗り、
何処かへと運ばれて行く。
 その行き先を目で追っていた三志郎は、五間(約9メ
ートル)ほど離れた屋根の上に立つ少年に気付いて、目
を見開いた。
「……正人!」
 間違いない。
 束ねた長い髪。色の白い、優しげな面差し。藍鼠色の
着物を纏った、痩せた体。
 あの夏の終わりの日、ウタと共に姿を消した少年──
須貝正人だった。
 そのウタは、今日も正人の後ろに、影のように寄り添
っている。三志郎と不壊を見ると、以前のように俯くこ
とはせず、まっすぐに見詰め返して来た。
「すまなかったね」
 声がした。聞き違いではない。やはり、正人の声だっ
た。
 戻って来た炎輪の撃符を摘み取り、にっこりと笑う。
「気を悪くさせたなら、謝るよ。でも、こうして会うの
は久しぶりなんだもの、つい気が急いちゃってね。……
判ってくれるだろう?三志郎くん」
「戻って来ていたんだな、正人。今度は何人、妖を攫っ
た?」
「攫ったなんて」
 心外だと言いたげに、正人は首を振った。顔に貼り付
いた笑みは消さず、言った。
「僕はただ、一緒に遊んでくれる妖を、集めているだけ
さ。妖は、獰猛で凶暴な連中だ。戦なんて、あいつらに
とっては、遊びも同然。喜んで集まって来たよ」
「そんなわけねェ!」
 怒りに任せ、三志郎は叫んだ。


                              (続く)


2008.1.22
久しぶりに正人の出番です。
正人って真面目だから、自分の出番まで、たった数行の
台詞でも、百回繰り返したりしてるに違いない…。