江戸ポルカ U


               〜 10〜


「……が、落ちた?」
 密やかだが、はっきりとした声に、ロンドンは目を覚ました。
ギグの声だ。
 夜具の上に起き上がり、手探りで枕元の行灯に火を入れる。
 三味線の譜面や手入れ道具に埋もれた、六畳間が浮かび上が
った。
 掘割に面した表長屋の一角、三枝家の二階に、ロンドンが寝
起きする部屋はある。
 多忙な両親は、今夜も宴席に招かれて夕刻から泊りがけで出
掛けている。帰りは明日の昼になると言っていたから、今この
家には、ロンドンとギグしかいない──筈だった。
 自分が寝てから、来客があったのだろうか。
 閉じた唐紙の向こうで、会話は続いている。
「それで、長はどうされた。ご無事なのか?」
 相手の声は、酷くくぐもり、殆ど聞き取れない。
 男か女か、大人か子供かすらはっきりしない。尤も、こんな
夜中に訪ねて来る子供はいないだろうから、おそらくは大人──
そして、ギグの言葉から察するに、人ではなく、妖に違いない。
 相手が何事か答えると、ギグが珍しく声を荒げた。
「判らないとは、どういうことだ!城が落ちたことを知りなが
ら、長の安否を確かめなかったのか!」
 普段は冷静な彼が、取り乱している。何か、不測の事態が起
こったのか。
 固唾を呑んで聞き入っていると、ギグは思いがけない名前を
口にした。
「……そうか、三志郎と不壊が、残っているんだな」
 ロンドンは、目を見開いた。
 三志郎は、昨夜から行方知れずになっていた。
 そのことを、ロンドンは昼間、瓢屋を直接訪ねて知った。
三志郎と、話したいことがあったのだ。
 奇妙なのは、三志郎がいなくなったことを、瓢屋では全く騒
ぎ立てていないということだった。
 三志郎は店にとって重要な番頭や手代格ではない、単なる見
習いの小僧だが、しかしそれでも、いなくなったとなれば、木
戸番やら番屋に知らせ、総出で探し回るのが普通だ。
 まして、三志郎は向島多聞亭からの、大事な預かりものだ。
いなくなりました、では済まないだろう。
 だが、瓢屋の態度は冷ややかだった。まるで三志郎のことな
ど忘れてしまったと言わんばかりの態度に、術にでもかけられ
ているかのようだ、とロンドンは思ったのだが、あながちそれ
も、外れではなかったのかもしれない。
 妖がらみなら、あり得る話だ。
 三志郎の身に何かが起こり、瓢屋全体が、そのことで騒がぬ
よう、術中に置かれているのだとしたら──。
 堪りかねて、ロンドンは唐紙を引き開けた。
 隣は、両親が稽古用に使っている部屋だった。
 行灯一つ点しただけの暗がりで、座ったまま、ギグが振り向
いた。
「ロンドン」
 部屋の中を、さっと見回す。会話の相手は、いなかった。
 ただ、ロンドンが唐紙を開けたほんの一瞬、部屋の隅に出来
た影の中に、何かが飛び込むのが見えた──気がした。ふさ
ふさとした、長い尻尾だったように思う。
「三志郎が、どうかしたのか。今、誰かと話をしていただろう」
「それは……」
「盗み聞きは頂けねェなあ」
 ギグの言葉の先を、もう一人が奪った。子供のような声だっ
た。
「そいつが今度の片割れか?ギグ」
 びくりと肩を揺らしたロンドンに、声は笑った。
「おぼこい奴だな。鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔してるぜ」
「いい加減にしろ、イズナ」
 ギグがまた、声を荒げる。「おっと」と、声が笑いを引っ込め
た。


                              (続く)


2008.1.13
漸くイズナを出せましたv
イズナは愛をこめて、時代屋のkさんへ!(要らないか…)