江戸ポルカ U


〜9〜


「大海魔……!」
 不壊が舌打ちし、耳慣れない名を口にした。
「あっちは、あんな奴まで手駒にしてやがるのか」
「強いのか?」
「ああ」
 妖を睨み上げ、不壊は応えた。
「半端じゃなく、強い。陰の世界の妖だ」
「陰の世界って?」
 尋ねても、今度は応えはなかった。
 素早く三志郎を抱き込み、不壊は、小部屋の奥の壁に手を掛
けた。さっと横に引く。壁と見えていたのは、外へ続く引き戸
だったのだ。
 戸板の向こうには、暗雲垂れ込める暗い空間が広がっていた。
 夜ではない。そもそも、昼夜というものが、ここには存在しない
のかもしれない。嵐の前触れのような暗さだった。
 ねっとりと湿った空気が雪崩れ込んで来る。棒手振りの桶の中で
丸一日売れ残っていた魚のような臭いがした。
 大海魔が放っているのだ。
 部屋の内に向かい、不壊が叫んだ。
「爺ィ、先に行ってるぜ!いいんだな!」
 大天狗が振り返り、頷いた。
「爺っちゃん!」
 三志郎を見て、微笑う。その顔に、また祖父の面影が被った。
「小僧、お主は、我ら妖の最後の希望だ」
 逃げ惑う妖たちを背に、大天狗は言った。
 雲の中を雷光が走り、一瞬、辺りが明るくなった。
 雷鳴が轟く。それに共鳴するかのように、大海魔が太い身体を
くねらせた。
 また、壁が崩れる。舞い上がった塵埃に、妖たちの姿が霞んだ。
 嫌な音を立て、頭上の梁に亀裂が走る。もう、いくらももた
ないだろう。
 地獄絵図の中、しかし大天狗は顔色一つ変えなかった。三志郎
と不壊だけを見詰め、ひと言ひと言、刻み込むように言った。
「妖の未来を、頼む。あの男から──須貝正人から、我々を、
我々の仲間を──」
 最後まで、聞き届けることは出来なかった。
 天井が崩落するより一瞬早く、不壊が三志郎ごと、外へ飛び
出したのだ。
「不壊!」
 真っ逆さまに、落下する。思わず、不壊にぎゅっとしがみつ
いた。
 打掛けの裾が、風にはためき音を立てる。
 落ちてゆく。
 どんどん、どんどん、落ちてゆく。
 たった今まで三志郎たちがいた天守閣が、見る間に遠くなる。
 大海魔に押し潰され、妖怪城が、断末魔の悲鳴を上げた。


                              10へ続く


2008.1.11
「大海鼠(おおなまこ)」と「大海魔」。
一字しか違わなかった!(驚)
ちなみに私はナマコの酢の物が大好物です(←全然関係ない)