江戸ポルカ U


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 賑やかな階下の声に、深い寝息が混じる。
 枕行灯の明かりの中で、不壊は目を開けた。
 丸々一刻粘った客も、漸く力尽きたらしい。不壊にのしかか
ったままの姿勢で、眠り込んでいた。
 重い体を押しやり、夜具から起き上がる。
 その拍子に、客の落し物がどろりと流れ出て、不壊は顔を顰
めた。陰間茶屋に潜入してもう半年以上経つが、これだけは馴
染めない。
 客は、夜具に転がされても目を覚まさなかった。
 金遣いの割りに、年は若い。20歳そこそこ、いっても23、4と
いうところだろう。どこかの若旦那だろうか。
 初会で素性は聞いた気がするが、ろくに覚えていない。それ
はこの客に限ったことではなく、毎回、誰を相手にしていても、
そうだった。
 不壊にとって、客は陰間という隠れ蓑にくっ付いてくる蓑笠
のようなものだ。あまりに性質が良くないものは困るが、そう
でない限りどれでも同じ、どこの誰だろうと構わない。そうい
うものだった。
 何もかも捧げる相手は、一人でいい。
 黒い襦袢を引き寄せて羽織ると、窓の傍に座った。障子を細
く開け、通りを見下ろす。
 暮四つ半(午後11時頃)を過ぎ、流石に人通りは少なくな
っていた。これから家へ帰るのか、寒そうに身を縮めた男たち
の上を、木枯らしが吹き過ぎる。細い女の泣き声のような風の
音。
 不壊は耳を澄ました。吹きすさぶ寒風の中に、近付く怪しげ
な者の気配を探したが、それらしいものは感じられない。
 『影』が一旦江戸から引き上げたのは、正解だった。
 居場所もやり口も目的もはっきりしていた華院重馬と違って、
須貝正人の場合、いつ、どこから、どのように仕掛けて来るの
か──そして、最終的な目的は何なのか、見当もつかない。
 判っているのは、妖を使った本物の戦をしたがっていること、
そして、戦の相手として多聞三志郎を望んでいること。それだ
けだ。
『三志郎を、長の元に連れて行ってはどうだろう』。
 昨夜、雷信と共に訪ねて来たギグは、そう提案した。
『三志郎には、我々妖が置かれている状況を、知らせておいた
方がいい。それも、切れ端ではなく、全てをだ。その役を果た
せるのは、長をおいて他にはいない。長も、以前から三志郎に
会いたがっていたから、いい機会だろう』
 三志郎を、妖の元締めである大天狗と引き合わせるよう、ギ
グは勧めに来たのだった。
 不壊もそれ自体に異存はなかった。が、すぐに承諾はせず、
『いずれ、折を見て』と言うにとどめた。
 ギグも雷信も、納得がいかなかったのだろう。首を傾げなが
ら帰って行った。
 二人の気持ちも判らないではない。
 須貝正人は、自分たち妖にとっては最強最悪の敵だ。叩ける
ものなら早々に叩いてしまいたいところだが、それも適わない。
手向かった挙句、撃符に封じられてしまっては、元も子もなく
なってしまうからだ。
 唯一の頼みの綱である三志郎はというと、たかだか11歳。
そんな子供に文字通り運命を任せなければならないのだ。心も
とないどころの騒ぎではないだろう。一日も早く長に会わせ、
事情を飲み込ませて、決戦に備えたい──その思いは不壊にも
理解出来る。
 しかし、それでも不壊は、大天狗と三志郎との対面を先延ば
しにした。
 矛盾している。自分自身に舌打ちが漏れた。やっていること
が、滅茶苦茶だ。
 三志郎を信じていないわけではない。ギグが言ったように、
巻き込むことを躊躇っているわけでもない。
 信じられない相手なら、はなから個魔になどならなかったし、
巻き込むの何のという時期はとうに過ぎている。
 では、何が不壊を踏みとどまらせているのか。
 長は三志郎に、撃盤を──妖を呼び出し、自由に操るための
道具を──渡すつもりだろう。
 それは即ち、三志郎に全ての妖の運命を預けることを意味す
る。不壊が恐れているのは、そこだった。
 撃盤を受け取った時、三志郎は何を思うか。誰より真っ直ぐ
で純粋だからこそ、三志郎はその重さに立ち止まってしまうに
違いない。
 それでも、不壊は見守る以外にないのだ。
 三志郎がどんなに迷い、戸惑い、傷付いたとしても、彼が自
分でそこから這い出て来るまで、不壊は待つことしか出来ない。
 今、大天狗のところへ三志郎を連れて行くことは、霧の中へ
と背中を押しやるようなものだ。
「……!」
 不意に三志郎の声を聞いた気がして、不壊ははっと俯けていた
顔を上げた。
 聞き間違いかと思ったが、そうではなかった。
 背筋に怖気が走ったかと思うと、今度はもっとはっきりと、
声が聞こえた。頭に直接、響き渡る叫び。
 ──不壊!
「兄ちゃん!」
 立ち上がった。
 客が目を覚まし、「何だ?」と起き上がろうとする。そこに軽
く当て身を食らわせ、不壊は畳にわだかまる黒い着物の渦に飛
び込んだ。


                             (5へ続く)


2007.11.5
不壊たん、悩んでますね。それもこれも愛ゆえ。悩め悩め。
ところで、花魁に当て身を食らわされた若旦那、気の毒に…。