江戸ポルカ U


〜3〜


 それを見送り、ロンドンも愛器の包みを引き寄せ、立ち上が
った。娘が慌てて振り返る。
「もう、お帰りですか」
「ええ。人を待たせておりますので」
 表から出ては客商売の妨げになるからと、勝手口からロンド
ンは上総屋を辞した。娘や女中がしきりに恐縮していたが、無
論、言葉どおりの理由ではない。待ち人は人目につかない所に
いる筈だ。
 案の定、くぐり戸から裏道に出ると、背の高い、異人の姿が
目に入った。
「ギグ」
 隣の瀬戸物屋の板塀に凭れ、待っていた男が顔を上げる。
三味線の包みを担ぎなおし、ロンドンは近付いた。
「こんなところで寒かっただろう。わざわざ外にいなくても、
良かったのに」
「寒さは英吉利の方が厳しい。それより、よく私が来ていると
判ったな」
「クレッセントが迎えに来てくれたからね」
 そのクレッセントの姿が見えない。始終ギグと一緒にいて、
ロンドンが近付くとすぐに肩に飛び移って来るのだが。
 見回していると、ギグが「行こうか」と歩き出した。表通り
を避けるように、細い裏路地へ向かう。
 ただ迎えに来たわけではないらしい。
「何か、あったのかい?」
 ギグの答はない。仕方なく、ロンドンはギグの大きな背中を
追って歩いた。
 漸くギグが口を開いたのは、上総屋近くの甘酒屋に腰を落ち
着けてからだった。
「君を狙っている連中がいたことに、気付いたか?クレッセン
トは、それを追い払いに行ったんだ」
「僕を狙っているって?一体誰が?」
 多少目立つ仕事振りなのは認めるが、狙われる覚えはない。
そう言って、ロンドンは失笑したが、ギグは笑わなかった。
代わりに、淡々と言った。
「良からぬものが、動き出した。クレッセントが現れた時、他
にも何かいただろう?」
 腑に落ちた。
「あの烏たちか……」
 障子が開くや否や、蜘蛛の子を散らすように消えてしまった
が。
 ギグが続ける。
「まだ正確に居場所を掴んだわけではないが、夏の一件以降、
姿を消していた、須貝正人が江戸に舞い戻っているらしい」
 甘酒に、生姜を一つまみ落とそうとしていたロンドンは、そ
の手を止めた。
 須貝正人。以前確かに、三志郎から聞いた名前だった。
 ギグの緑色の瞳が強い光を帯び、そして、低い声がはっきり
と告げた。
「戦が始まるぞ。ロンドン」
 ギグと出会った頃のような──いや、それより更に激しい嵐
がやって来ようとしている。その中心にいるのは、『あいつ』
だ。
「三志郎のところには?」
「昨夜、不壊と会って確かめたが、まだ何も仕掛けられてはい
ないようだった。そこに、先刻の一件だ。どうやら敵は、将を
射るにはまず馬から、と考えたようだな」
「酷いな。僕は馬かい」
 苦笑を漏らすと、珍しく窘められた。
「笑い事ではないぞ、ロンドン。元々、三志郎は戦いを望んで
いない。しかも彼の個魔である不壊が、三志郎を戦わせること
に二の足を踏んでいる。撃符使いと個魔、双方の腰が引けてい
たのでは、到底勝つことなど出来ない。それどころか、戦その
ものが成立しない。そう考えた敵が、三志郎を戦場に引っ張り
出すために君を利用しようとしたのだとしたら?三志郎が戦わ
ない限り、君が襲われ続けるかも……」
「そんなに心配するなよ、ギグ」
 あっさりとロンドンは言い、大きめの湯呑みに口を付けた。
さらさらとした甘酒が、喉を下りて行くのが判る。
「三志郎が戦いを望んでないっていうのは、当たってるだろう
けどね。でも、心配は要らない。あいつはちゃんと、自分のや
るべきことを判ってるよ」
 警告を鼻先でかわされたギグが、不思議そうな顔をした。
「やけに自信があるんだな」
「そりゃあ、あいつとは昨日今日の付き合いじゃないからね。
君が不壊をよく知っているように、僕も三志郎のことはよく知
ってるんだ。僕だって、簡単に射られるつもりはないし、それ
に……」
 悪戯な微笑と共に、ロンドンは自分の個魔を見上げた。
「……君は僕の個魔だ。守ってくれるんだろう?ギグ」


                             (4へ続く)


2007.11.2
私自身は、甘酒に生姜を入れたことがありません。生姜入り
がお好きな方、いらっしゃいますか?
え〜、不壊と会っている時には酒ばかり飲んでいる印象が
強いギグですが、ロンドンと一緒の時は甘酒屋にも甘味屋に
も入ります。