江戸ポルカ U


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 芝居小屋の暦は、町場のそれとは少々異なる。
 一年の始まりは11月1日。この日、新たな一座が組まれ、新た
な演目で顔見世興行が始まる。
 12月10日で顔見世は終わり、次は年明け、正月2日の初春狂言
を皮切りに、二、三ヶ月ごとに演目を変えて十月まで続く。
これで一年だ。
 役者だけでなく、裏方も皆この暦に従って動く。齢13にして
芝居小屋の囃子方をこなしているロンドンもまた、例外では
なかった。
 10日で顔見世興行は無事に幕を閉じたが、それで年内の仕事
が終わったわけではない。その翌日からは出稽古でいっそう忙
しく歩いている。
 普段から、稽古を付けて欲しいという依頼はひっきりなしに
来るのだが、舞台が入っている時はどうしてもそちらが優先に
なるから、おいそれと弟子を取るわけにはいかない。
 それならばと芝居小屋が閉まるこの時期を狙って、一日稽古
を頼む者が多く、そのため、年末のロンドンはいつにも増して
忙しくなるのだった。
「ありがとうございました」
 十七、八の娘が、楚々とした仕草で畳に両手をつく。それに
「お疲れ様でした」と微笑みかけ、ロンドンは愛器を丁寧に袋
に仕舞った。
 日本橋本町の三代続く茶問屋『上総屋』の奥座敷だった。表
の店は買い物客で押すな押すなの大変な騒ぎだというのに、こ
ちらは別世界の静けさだ。
 三味線の音が途切れたのを合図のように、女中が茶菓を運ん
で来る。稽古で喉が渇いているだろうという心遣いか、茶は玉
露ではなく煎茶だった。それでも茶問屋らしく上等のものを使
っているのだろう。香りが高く、口当たりも良かった。
「年内の稽古はこれで終わりということに致しましょう。あと
は、年明けに一度さらえば、十分だと思います」
「本当ですか?」
 自分より四つも年下の師匠の言葉に、娘が目に見えて安堵し
た。
 客が立て込むこの時期、いかに人手の多い大店とはいえ、年
頃の娘をただ遊ばせておくような親はいない。得意客への挨拶
とか、奥向きの用事とか、仕事は山のようにあるのだ。
 にも関わらず、上総屋の娘がこうして音曲の稽古になぞ励ん
でいるのには、事情があった。年明けに控えた祝言までに、ど
うしても三味線の腕を磨いておかねばならないのだ。
「お輿入れは二月でしたね」
「はい」と、恥ずかしそうに娘は頷いた。
「先方のお祖父様が、音曲のお好きな方だとか?」
「はい。それで、私が三味線をたしなむと聞いて、たいそう
お喜びになったそうなのです。これからは毎日、聴かせてもら
えると……とても私では、そこまでの腕はございませんのに」
 困ったような口調の割りに、娘の表情は明るい。どんな理由
であれ、夫の家族が、自分が嫁ぐのを楽しみにしてくれている
というのが嬉しいのだろう。
「お祖父様のお好きな曲が判れば、年明けはそれを弾いてみま
しょうか。先に知らせて下されば、譜面を用意しておきますか
ら……」
 突然、閉じた障子の向こうで、「カァ!」と烏の鳴き声が上
がった。ロンドンの言葉に耳を傾けていた娘が、驚いたように
障子の方を振り返る。
「何でしょう」
 烏は一羽ではないらしい。カァカァと激しく鳴き喚いている。
獲物でも見つけたのだろうか。
 娘が立ち上がり、障子を開けた。途端、幾つもの黒い影が飛
び立つ。しかし、彼らの『獲物』は動かなかった。
「まあ」と娘が声を上げ、魅入られたように、それを見詰めた。
「綺麗な鳥ですこと」
 冬枯れた庭で一本だけ、青々とした葉を繁らせている侘助の
木。そこに、鶯ほどの大きさの、金色の鳥が一羽、とまってい
た。
 あれだけ烏に喚きたてられたというのに、怯えた様子はない。
思慮深そうな目が、部屋の中を──正確には、ロンドンを見詰
めている。
「クレッセント……」
 ロンドンが呟くと同時に、さっと美しい羽を広げ、鳥は飛び
去った。


                              (続く)


2007.10.30
というわけで、久々にロンドン登場〜でした。
それにしてもこの子は書き甲斐がありますな…。