江戸ポルカ U
1
「不壊」
目を開ける。見えたのは、古い天井板ではなく、真上から覗
き込む『彼』の顔だった。
緩く結い上げた長い銀髪。ほつれた幾筋かが、黒い打掛の肩
に落ちかかっている。簪は、長く繋いだ極上の紅珊瑚だった。
彼が動くと、それがしゃらしゃらと微かな音を立てる。
青白い肌と、細い首。そして、三志郎を見下ろす紅い瞳。
三志郎の影から現れた花魁姿の妖は、薄く紅を引いた唇を歪
め、笑った。
「煤払いなんだろう?真面目にやらねェと、また叱られるんじゃ
ないのか?」
「さぼってたわけじゃねェよ。一休みしてただけだっつぅの」
むっとして、三志郎は言い返した。起き上がり、畳に胡坐を
かく。その向かいに、不壊が腰を下ろした。
「ふぅん……一休みねェ」
「本当だって。また向島に連れ戻されたらかなわねェからな。
仕事も手習いも、真面目にやってるよ」
やるべきことを疎かにすればどうなるかは、身に沁みて知っ
ている。
夏の間中、三志郎は奉公もそっちのけで妖絡みの騒動にかま
けていたのだが、八月半ば、ついにその体たらくが母の知ると
ころとなり、向島の実家に無理矢理連れ戻された。
十日間、みっちり母に絞られた後、三志郎は、もう一度、瓢
屋で奉公をさせて欲しいと両親に頼み込んだ。
賑やかな日本橋の大店での毎日が、楽しかったせいもある。
二年も世話になった瓢屋を、あんな形で出なければならない
のが心苦しかった。それもある。
けれど一番の理由は、今、三志郎の目の前にいる、この男
──不壊だ。
自分は人間ではなく妖なのだと正体を明かし、そして三志郎
の『個魔』になった。常に三志郎に寄り添い、三志郎を守り、
三志郎のためだけに生きて、他の誰のものにもならないと誓っ
た。
その言葉を疑ったことはない。確かに、不壊は三志郎の傍に
いる。こうして影で繋がり、三志郎がどこにいようと、不壊は
影を伝って現れる。
だが、それでも不壊は、未だ三志郎だけのものではない。
古い畳に、孔雀の羽模様を刺した豪奢な打掛けが広がってい
る。酔狂でこんな格好をする者はいない。いや、いるかもしれ
ないが、少なくとも不壊は違う。
この数年の間に攫われ、撃符に閉じ込められた妖たちを助け
出すまで、不壊は芳町の陰間茶屋から動くことが出来ないのだ。
表向き陰間の体裁を取っている以上、座敷がかかることもあ
る。酒宴があれば、当然その先もある。
崩した裾から覗く白い足首から、三志郎は目を逸らした。
考えまいとしていても、時折、どうしようもなく胸が痛んだ。
三志郎の様子に気付いたのだろう。視界の端で、不壊がさり
げなく足を隠した。そうして、言った。
「さっさと妖たちを取り返して、俺を寝井戸屋から解放してく
れるんだろう?」
愛想のない口調の中に、温かいものを感じ取って、三志郎は
顔を上げた。紅い瞳と、目が合った。誰よりも深く、不壊は三
志郎を信じてくれている。
応えなければ。ぐずぐずと立ち止まっている暇はない。
三志郎は、頷いた。
「……ああ。心配すんな。絶対、連れ出してやるからよ」
不壊は微笑み、立ち上がった。
「そうかい。なら期待してるぜ、兄ちゃん。くれぐれも、ダレ
てるところを見つかって追い出される、なんてのは、なしだか
らな」
「何だよ、それ!」
掴み掛かろうと伸ばした三志郎の手をすり抜け、不壊は足元
の影に飛び込んだ。
「こら待て、不壊!何しに来たんだよ、お前!」
畳に向かって呼びかけると、影からにゅうっと右手だけが出
た。それは三志郎を揶揄うようにひらめき、そして、声が応え
た。
「暇つぶし」
「この野郎!」
今度こそ掴んだ、と思ったのだが、次の瞬間、不壊の手は消
えていた。
後には、体温の低い、細い指の感触だけが残った。
(2へ続く)
2007.10.20
母からしごかれた10日間、三志郎は地獄を垣間見たらしい
です。