江戸ポルカ U


               プロローグ


 ……春は花咲く 木かやも芽立つ
 立たぬ名も立つ 立てらりょか……


 甘く低い声で、女が唄っている。
 女が彼の元に現れてからというもの、何度も同じ歌を聴いた。
 女が昔住んでいた村では、春のほんのいっときだけ唄われる
のだそうだ。
『それ以外の時は、口ずさんでもいけないの。山の神の怒りに
触れるから』
 だが、女はいつも──夏も秋も冬も──その歌を唄う。
 何故、と聴いてみたことがある。神の怒りをかうと判ってい
て、何故その禁を破るのか、と。
 女は微笑んだだけで、答えてはくれなかった。
 懐かしいのか。村に帰りたいのか。
 そう問うと、女は首を横に振った。
『懐かしくなんかないわ。帰りたいと思ったことなんて、一度
もない。私の居場所は、ここだもの』
 そして彼女は、彼の傍にいる。細い腕で彼を抱き締め、優し
く語りかけ、彼のために唄う──今夜も。


 ……春になればぞ うぐいす鳥も
 山を見たてて 身をふける……


「ウタ」
 歌が止んだ。僅かな間をおいて、応えがあった。
「なあに、正人」
 枕行灯の仄かな明りの中、連子窓から外を眺めていたウタが
振り返る。男なら誰でも、はっと見入ってしまうほどに美しい
女だった。白い肌と、夜目にもくっきりと鮮やかな赤い唇。
長い睫毛の目元は、いつも少し寂しげで、しかし優しい。
 この貌が、一度だけ苦痛に歪んだことがある。
 三月ほど前だ。その時初めて、ウタの過去を彼──須貝正人
は知った。ウタが未だ囚われたままの男の存在を知った。
 同時に、正人は生まれて初めて、心底戦いたいと思う相手と
出会った。怒りに任せて妖を操る正人を前に一歩も譲らず、それ
ばかりか相手もまた、妖を繰り出し、正人を阻んだ。
 多聞三志郎。
 真っ向から正人を見据えた、意志の強そうな、大きな目を思
い出す。
 あの時は、ウタが水を差し、戦うことが出来なかった。
 だが、もういいだろう。
 枕に頭を乗せたまま、天井を睨み、正人は言った。
「そろそろ、江戸に戻ろう」
「江戸に」
 繰り返す声が僅かに震えた。
「何のために……?」
 視線を巡らせる。ウタは顔を俯けていた。
「心配しなくていい。重馬を殺したりはしないよ」
 重馬というのが、ウタを縛り続ける過去だ。そして、彼を殺
そうとした正人を止めたのが、三志郎だった。
 ウタが、そっと押し殺した息を吐き、頭を上げた。菫色の瞳
が、正人を見詰める。
「三志郎と、勝負するんだ。……妖を使って」
 枕元に積んだ撃符を、正人は見た。百枚はあるだろう。つま
り、正人の手駒として百匹の妖がいるということだ。
「江戸に戻るのは、嫌かい?」
 ウタは、小さく「いいえ」と応えた。
「言ったでしょう。私の居場所は、貴方の居るところだって。
一緒に行くわ」
 正人が頷くと、ウタは再び窓の外へと目をやった。
 布団に横になった正人からは、月も星もない、ただ黒々とし
た夜空しか見えない。ウタは、一体何を見ているのだろう。
 やがて、また歌の続きが聴こえて来た。


 ……春の霞は 見るまいものよ
 見れば目の毒 見ぬがよい……


 不意に、判った。山神の怒りをかうと判っていて、ウタがこの
歌を唄う理由。
 ウタは、罰を受けようとしているのではないか。
 いっそ、粉々に壊れ、この世から消えてしまいたいと思って
いるのではないか。──正人と共に。
 それなら、それもいいだろう。どうせ、先の長くない命だ。
ウタになら、くれてやっても惜しくない。
 ただ、この勝負さえ、終わったら。
「待っていろ……多聞三志郎」
 瞼を閉じる。
 夜より暗い闇の中で、燃え盛る二つの炎が激突し、火の粉が
舞い踊った。


                              (1へ続く)


2007.10.14
『江戸ポルカ』続編、スタートです。
またもや無駄に長〜い連載になると思いますが、どうぞお付き合い
くださいませ!