オーストラリア屈指のリゾートシティ、ケアンズ。
 大小様々なダイビングスポットを有するグレートバリア・リーフ
と、世界最古の熱帯雨林という二つの世界遺産を有する地の利と、
年間通して温暖な熱帯雨林気候という好条件が重なり、日本からの
移民も多い。
 近年は流石に日本の不況の煽りを受け、一時期のような賑わいは
なくなったが、それでも尚、国の内外を問わず、旅行客に人気の街
である。


「──って、俺は別にガイドブックの暗唱を頼んだ覚えはないぜ?」
 明るいレモンイエローのソファで、快斗はそう言ってふんぞり返
った。すかさず投げつけられたガイドブックを軽く払いのけ、立ち
上がる。
 二つ並んだベッドの片方から、不機嫌そうな子供の声が上がった。
「俺は眠いんだって言ってんだろ?ここのところ事件続きでろくに
寝てねェんだよ」
「しょうがねぇなあ。飛行機の中で寝ておけよ」
 その言い草に、ベッドの上に突っ伏していたコナンが振り返った。
真っ赤に充血した両眼で快斗を睨み上げ、
「てめェ・・・・・・一体誰のせいで眠れなかったと思ってるんだ?」
 日本からケアンズ到着までの五時間、食事以外は睡眠に当てるつ
もりだったコナンが一睡も出来なかったのは、確かに快斗のせいだ
った。
 隙あらば悪さしようと狙う快斗の手と、それを叩き落そうとする
コナンとの間の攻防戦は、成田離陸直後に始まり、実に赤道を越え
てケアンズ空港到着まで続いたのだった。
 むきになる姿が可愛らしくも面白いと、快斗は腹を抱えて笑った
が、子供の体を持つコナンにとっては笑い事ではない。最早疲労は
ピークの筈だった。それは充分承知しているが。
 怒りに引きつる幼い顔を眺め下ろし、快斗は肩を竦めた。
「折角遊びに来たんだぜ?眠ってちゃつまんないだろ。大体今日か
ら旅行だってのは前から決まってたことなんだし、事件にかまけて
体調管理を怠ったのは自分のせいだろうが」
 意外にもきつい台詞に、コナンは黙り込んだ。反論出来ないのが
悔しいのだろう。ふいとそっぽを向いたかと思うと、口の中で「ご
めん」と呟くのが聞こえた。
 素直ではない彼のことだから、これが精一杯だろう。快斗は表情
を和げた。
「ま、仕方ないな。コナンちゃんがお昼寝してる間、その辺散歩し
て来るか」
「・・・・・・おう」
 最初からそうしとけよな、とか何とかぼやきながら、
コナンが靴を脱ごうと体を起こす。
その様子を眺めていた快斗の口元に、意地の悪い笑みが浮かんだ。
「ねえ、コナンちゃん。ちょっとだけ付き合ってくんない?」
「何だよ」
 コナンが顔を上げる。どこか怯えたような眼差しは、この手の展
開だとろくなことがない、という過去の経験に依るものだ。
「お前も元は俺と同じ年なんだし、徹夜した後ってどんなだか、判
るよな?」
「──!」
 意味を察して飛び退ろうとしたコナンを捕まえる。全身でのしか
かり、ベッドに抑え付けると、細い躰が必死にもがいた。
「おっと、麻酔銃は無しだ」
 子供の身に合わないほどごつい腕時計は、コナンを護りもするが、
同時に厄介な代物でもある。  
快斗は、一瞬の手の動きで時計を消し去った。
「てめェ、返せ!」
「嫌だね」
 時計をなくした細い手首を掴み、ジーンズの前立てに触れさせる。
そこは、徹夜明けの昂揚で熱を帯び、硬く張り詰めていた。
驚き、手を引っ込めようとするのを許さず、更に押し付けると、
コナンの頬に朱が昇った。
「この変態!」
「変態で結構。でも、俺はとりあえず性犯罪は犯してないぜ」
「何言ってやがる!児童虐待と強制・・・・・・」
「お前は、工藤新一なんだろ?」
 コナンの口が罵声を飲み込んだ。何かを堪えるように引き結ばれ
た唇に口付けて、抱き締める。
「俺はお前だったらどっちでも抱けるぜ?江戸川コナンでも、工藤
新一でも」
 腕の中の躰から、力が抜けた。額が快斗の肩口に寄せられる。
 快斗の唇が、横たわった三日月の形に吊り上がった。
 してやったり。
 あと一押し。それでおそらくコナンは落ちる。ペースに乗せてし
まえばこっちのものだ。
「だから・・・・・・ん?」
 耳に障る、甲高い音が聞こえる。
嫌な予感に、そろそろと視線を巡らした快斗は、「げ」とカエルが
潰れたような声を上げた。
 忘れていた。
 コナンがまだ靴を履いたままだったということを──!
「あ、あの、コナンちゃん?落ち着いて・・・・・・安眠妨害したことは
謝るから!ね?このとおり!だからちょい待ち、待てって・・・・・・!」
 コナンの右足、正確には靴が一際高く鋭い音を上げた。あまつさ
え、パリパリと放電までし始めている。  
ベッドから転がり落ちるようにして逃げた快斗だったが、間に合
わなかった。
 開け放したままの窓から小さなバルコニーまで吹っ飛んだ彼は、
勢い余って手すりから外へ転がり落ちた。
「わーーーーーーーーーーーーーっ!」
 長く尾を引く叫びと共に、快斗は二十三階分の空間を落ち、そし
て──。
 ザブン。
 中庭のプールに落ちた。

            ×      ×      ×

 シドニーから休暇でケアンズに来ていた、レジーナ=ハンターは
充分満足していた。
 確かに暑いが、アスファルトや石畳で覆われたシドニーよりもず
っと快適だし、食事も美味しい。
 初めてリザーブした五ツ星ホテル、ケアンズ・インターナショナ
ルは、スタッフの応対もよく設備も整っていた。
 これで隣にいい男でもいたらね・・・・・・。
 プールサイドに出したデッキチェアにトップレスで横たわり、存
分に肌を焼きながら、唯一の不満を思い出した時だった。
「わーーーーーーーーーーーーーっ!」
 叫び声と共に、何かがプールの真ん中に落下した。大量の飛沫が
プールサイドに散る。
「何なの!」
 慌てて飛び起きた彼女が見たのは、プールから上がろうとしてい
る男の姿だった。
 髪と同じ色のTシャツとジーンズ。全身から水を滴らせて上がっ
て来た彼は、大きく頭を振って水滴を払った。
 動物みたい。
 堪え切れずレジーナが吹き出し、そこで漸く彼は振り返った。
 東洋人の年齢は判りづらいが、いずれ自分より年下だろう。彼は
何故か一瞬面食らった顔をしたが、すぐに微笑を浮かべながらレジ
ーナの元へ近づき、足元に片膝をついた。
「これは失礼しました、マダム。驚かせたことをお詫び致します」
 流暢な英語だった。間近で顔を覗き込んで初めて、彼がとても整
った顔立ちをしていることにレジーナは気が付き、それから彼のさ
っきの表情の理由に思い至った。トップレスだ。
慌てて傍らのバスタオルで胸を隠す彼女の前に、彼の手が突き出
される。
「──?」
長い指先に気を取られた、ほんの一瞬だった。ぽん、と軽い破裂
音と共に、赤い薔薇の花が一輪咲いた。
「あ、あなた、マジシャンなの?」
「ええ、そうです」
薔薇の花を受け取り、レジーナは尋ねた。
「どうして上から落ちてきたの?」
「夜なら飛べる魔法使いも、昼の陽射しの下では力が半減するもの
です。その上、こんな魅力的な女性を見つけてしまっては・・・・・・」
 笑い出す彼女にもう一度詫びて、彼は立ち上がった。
 去り際、自分の部屋なのだろうか、階上のバルコニーを見上げ、
彼が呟くのが聞こえた。
「・・・・・・つれないねェ、相変わらず」
 日本語のそれは、レジーナには判らなかった。


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