日が落ちて、薄暗くなったエスプラネード(海岸通り)は、昼間
の閑散とした雰囲気とは一転、観光客や仕事帰りの地元民でごった
返していた。
近年問題になっているオゾンホールの影響もあってか、昼の陽射
しは痛いほど強く、吹く風は熱風に近い。
日中は室内で過ごし、早朝や夜に出歩くというスタイルは、理に
叶っているのかもしれない。
昼間たった一時間やそこら歩き回っただけで日に焼けてしまった
鼻の頭を撫で、快斗はそんなことを思った。
隣を歩くコナンは、先ほどから三度目の欠伸をしている。散々寝
た筈だが、まだ眠いのだろうか。
「おい、大丈夫なのか?辛いなら何か買って帰って部屋で飯食って
もいいんだぜ?」
 快斗の提案に、目をこすりつつコナンは首を横に振る。
「いや、いい。寝すぎるとかえって調子が悪くなりそうだ。それよ
り、どこで食う?ガイドブック見たんだろ?」
「ああ、そりゃもうコナンちゃんが寝てる間にじっくりと・・・・・・あれ?」
 道沿いに建ち並ぶレストラン。その一軒の店先で、若い女が三人、
立ち話をしていた。一際目立つ、オレンジ色のホールターネックの
ワンピースを身につけた女が、快斗に気が付き、「あら」と声を上げ
る。
後ろで一つにまとめた波打つブルネットと、意志の強そうな目元。
その顔に見覚えがあった。
連れに「先に入っていて」と声をかけ、彼女は二人に近付いて来
た。
「こんばんは、魔法使いさん。この坊やは貴方の弟?」
 親子というには年が近過ぎ、友達と言うには離れ過ぎている二人
が、一番多く括られるカテゴリが『兄弟』だった。いちいち説明す
るのも面倒だし、通りもいいので、普段はそれで通している。
快斗は頷き、
「ええ。先刻は失礼しました」
「どういたしまして。思ったより若かったのね。こんな小さい弟さ
んがいるなんて。・・・・・・坊や、お年は?・・・・・・って、ごめんなさい、
通訳してくれる?」
 快斗が口を開くより早く、コナンが答えた。
「7歳だよ、お姉さん」
 幼い子供の口から出たのが、澱みないクイーンズイングリッシュ
だったことに意表を突かれたのか、彼女は一瞬呆気に取られ、それ
から笑った。
「そう、しっかりしてるのね」
 鋭い肘鉄が快斗を突いた。
「おい、誰だよ、彼女は」
「先刻お前に蹴落とされた時、プールで会ったんだよ」
「へえ、チャンスは逃さないんだな。流石は怪盗キッド。敬服する
ぜ」
「どういう意味だ、そりゃ」
 小声の言い合いを、微笑ましい兄弟喧嘩とでも思ったのだろうか。
彼女は、友人が待っているから、とレストランの中へ入って行った。
その後姿を見送り、快斗が呟く。
「91─62─90」
「・・・・・・何だそりゃ」
「上から91センチ、62センチ、90センチ。胸の形も綺麗だったけど、
お尻もなかなか・・・・・・あ、痛ッ!」 
向こう脛にまともに蹴りを喰らい、快斗が呻く。
「何しやがる!」
「オメー、つくづくスケベだよな。自慢のIQ、そんなことに使ってん
じゃねえよ!」 
「俺が自分の頭をどう使おうが俺の勝手だろうが!・・・・・・ん?それ
とも何か?コナンちゃん、ひょっとして妬いてんの?」
 にやけた切り返しに、コナンはあからさまにげんなりした顔を見
せ、それからおもむろに背後の店を指した。
「ここ」
「あ?」
「ここがいい。晩飯」
「この店か?・・・・・・って、ちょい待て、コナン!」
一転して悲痛な叫びを上げた快斗を尻目に、コナンはさっさと店
内への階段を上り、開け放たれた入口をくぐった。ギャルソンに二
人連れだと告げている声がする。
快斗は恨めしげにもう一度看板を見上げた。
『バーナクル・ビルズ・シーフード・イン』。
 美味い店が軒を連ねるエスプラネードでも有名なシーフードレス
トランだった。

            ×     ×     ×

 運ばれて来たワインと前菜を前に、レジーナは一人、考え込んで
いた。
 生ハムとマンゴを取り分けていた友人が、不審そうに声を掛ける。
「ねえ、先刻からどうしたの?」
「ああ、うん・・・・・・ちょっと・・・・・・」
「店の前で会った男の子のこと?あんた、年下趣味だっけ?」
「違うでしょ。結構いい男だったのに、勿体無いわよね。私は年下
でも構わないから、レジーナがいらないならもらっちゃおうかな」
「あんた、彼氏はどうするの?」
 レジーナ本人を無視して好き勝手に言い合う友人たちを軽く睨み、
また彼女は考え込んだ。
 何かがおかしい。
 ほんの短いやり取りの中に、符合しないところがあって、それが
魚の骨のように喉の辺りに引っかかっている。
 どこかしら。
「お待たせしました。ボイルドロブスターでございます。ハンマー
で割ってお召し上がりください」
 ギャルソンの、少しケアンズ訛りのある声に、「あ」とレジーナは
顔を上げた。
「どうしたのよ、今度は」
「判った・・・・・・何がおかしかったのか」
 あの二人は兄弟ではない。
 プールで会った『兄』が話していたのは米語、『弟』が使っていた
のは、見事なクイーンズイングリッシュだった。
 二人とも大人ならいざ知らず、あのくらいの年齢で、兄弟が話す
言語が違うというのは妙だ。
「ああ、すっとした。さ、食べましょ」
 手元のハンマーを握り締め、レジーナは宣言した。
それでは彼らは一体どういう関係なのか、という疑問がちらりと
頭を過ぎったが、叩き割った殻の中の、ぷりぷりした白身を見た途
端、そんな瑣末なことは綺麗さっぱり消え去った。
レジーナ=ハンターは結構単純なオージー娘だった。

           ×     ×     ×
 
魚嫌いの快斗に、これでもかという地獄の責め苦を味わわせても
尚、気が晴れなかったのか、ホテルの部屋に戻ってもコナンは口を
利かず、バスルームに入ったきり出て来なくなった。
かれこれ一時間。
腕時計を眺め、快斗はがしがしと頭を掻いた。
どうやら彼の不興をかったのは、あのナイスバディが原因らしい
が、言わせてもらえば、後ろめたいことは一切していない。ただ立
ち話をした程度じゃないか、とあの後言ってみたのだが、コナンは
にこりともしなかった。
正直なところ、例え何かあったところで、それは旅行者同士のコ
ミュニケーション、「それくらい」大したことではないだろう、と快
斗は思っているのだが、ますますコナンの怒りに油を注ぐ結果にな
るだろうから、それは言わずにおいた。
「あーあ、もう・・・・・・」
 風呂からはまだ、シャワーの音がしている。
退屈しのぎにリモコンを取り上げ、快斗はテレビを付けた。日本
人客が多いのだろう、日本語の案内もあった。
 CNN、BBCのニュース、地元局のバラエティ、ドラマを飛ば
すと、ビデオに切り替わった。
 一、二年前に話題になった映画と、最新のものが一本ずつ、あと
は──。
 突然、甘ったるい女の喘ぎが流れた。
 アダルトビデオが2局。これまた日本人を意識しているのか、洋
物と和物に分かれているのが面白い。
 日本のような規制がないので、お馴染みのモザイクもない。日本
人男性客にはさぞかし喜ばれていることだろう。
 例のナイスバディにちょっと似た面立ちの女が大袈裟な叫びを上
げながら腰をくねらせる映像を眺めながら、いっそこのまま抜いて
しまおうかと思いかけた時だった。
 微かな音と共に、バスルームのドアノブが回った。
 慌ててスイッチを切るのと同時に、コナンが現れた。足元がふら
ついている。
「おい、どうした?」
 快斗の呼びかけにも応えず、コナンはベッドまでようやく辿り着
くと、どっと倒れこんだ。
「・・・・・・気持ち悪い。のぼせた」
 疲れていたせいもあるのだろうか。額に触れると、ひどく汗をか
いていた。
「何でもねェよ、放っとけ」
 うるさげに手を払いのけ、快斗に背中を向ける。快斗は溜息を吐
いた。
「お前、まーだ怒ってんのかよ?」
「ああ?」
「彼女はただ挨拶しただけだろうが。別にデートしたわけでもなき
ゃ寝たわけでもねーのに、何怒ってんだ」
「てめ・・・・・・もう少し言葉選べよな!」
振り向いたコナンに鼻先が触れるほど顔を寄せ、快斗は笑った。
「やっとこっち向いた」
「汚ねェぞ!」
「泥棒に向かって今更綺麗も汚いもないでしょう」
「そこでキッドになるなッ!」
 叫ぶコナンを素早く抱き込み、ベッドに転がる。スプリングの伸
縮に合わせて体が揺れ、胸の上で小さな躰も弾んだ。
「・・・・・・やっぱりちょっと熱っぽいな。明日キュランダに行くの、
やめておくか?」
 熱帯雨林の中にある高原の町キュランダは、コナンが行きたがっ
ていた場所だった。暫し考え込み、それから彼は首を横に振った。
「いい。大丈夫だ、行ける。暑くて少し参っただけだから、涼しい
高原の方が・・・・・・」
 くるりと大きな目が快斗を見上げ、それから唐突にコナンは笑い
出した。
「何だよ」
 珍しく声を上げて笑い転げる彼の手が、快斗の鼻の頭に触れた。
途端、ひりつくような痛みを感じる。
「日焼け。お前、日焼け止め持って来なかったのか?」
「そういえば」
「ばーっか、何やってんだよ。紫外線は日本の十倍だぜ?明日キュ
ランダ鉄道に乗る前に、ドラッグストア行こうぜ。日焼け止め買わ
なきゃ」
 その台詞に、快斗は首を傾げた。
「あれ?そう言うコナンちゃんは?持って来てないの?」
「・・・・・・忘れた」
「人に言っておいて?」
「悪かったなあ!忙しかったっつってんだろ!」
 怒り出す彼をもう一度抱き締め、その耳元に口を寄せる。
「明日、ドラッグストア行ったらさ」
 ゴム買うから、そうしたらやらせて。
「オメーはまた・・・・・・!」 
「俺だって、一応気は遣ってんのよ?」
 コナンの眉根が寄せられた。
 拒否も出来ず、かといって、性格上受け入れることも出来ない。
困惑した彼が偶に見せるこんな表情が、快斗は好きだった。
「今日はとりあえず我慢するから、代わりにキスしてよ」
「何言ってんだ、バーロォ」
「口にしてなんて言わないからさあ、ねッ?」
 ますます眉間の皺を深くしたコナンは、たっぷり十秒は固まって
いたが、やがて諦めたような溜息と共に、
「判ったよ」と一言、快斗の日焼けした鼻先に口付けた。軽く歯を
立てたのは、せめてもの腹いせだろう。
「これで文句ないだろ。てめーもさっさと風呂入って寝ちまえ」
 壁の方を向こうとする顔を引寄せ、細い首筋に口づけると、快斗
は漸くコナンを解放した。
「俺は約束は守るぜ。予告を破ったことなんか、一度もないだろ?」
 即ち、今日は大人しくしているが明日は遠慮しないぞということ
だ。その意図に気付き、赤くなるコナンをベッドに下ろし、快斗は
風呂に入るべく起き上がった。
 その指先に、何か硬いものが当たった。ブツン、と何かのスイッ
チが入る音。
「──ブツン?」
 突如、部屋中に女の嬌声が響き渡った。先刻まで見ていたAVが、
32インチの画面一杯に映し出される。
 快斗の体から、一気に血の気が引いた。
「いやあ、参ったなあ。先刻あちこちいじくり回してたら、間違っ
てこのチャンネルに・・・・・・あの、コナン、ちゃん・・・・・・?」
 おそるおそるコナンの顔を覗き込み、快斗は、ひいっと凍り付い
た。
 怒っている。凄まじく怒っている。
心なしか、レンズが光っている気がするが、これは本当に気のせ
いなのだろうか?
スコーンと抜ける夏空の下、ユーカリの樹の上で、日がな一日寝
こけているコアラが、一瞬快斗の脳裏を過ぎった。
ああっ!俺はコアラになりたい!
「こンの・・・・・・!」
快斗が脱兎のごとく窓から外へ飛び出したのと、コナンの口から
あらん限りの罵声が飛び出したのは、ほぼ同時だった。
ケアンズ最高の五つ星ホテルのバルコニーから、コナンの声が響
き渡った。
「二度と戻って来んなーーーー-ッ!」
 夜中の水飛沫など、誰も見る者はなかった。

                              了