彼と彼の領域 U


 大丈夫、トリコのことだ。そう簡単に捕まりはしないだろう。
 それに、相手が誰で、どんな理由があろうと、トリコを返す
つもりはない。トリコが望む限り、ココが彼の飼い主であり、
この家が彼の家──彼の領域なのだから。
「……!」
 玄関のドアが開く音がして、ココは、はっと顔を上げた。
「トリコか?」
 立ち上がり、玄関ホールへ向かう。
 だが、そこにいたのは、犬(トリコ)ではなく猫(サニー)だった。
「よう。久しぶり」
 白、青、ピンク、緑。派手な長い髪をふさふさ揺らしながら
上がりこんだ猫は、人を食ったような顔つきで片手を上げた。
 三日前にも会っているから、全然「久しぶり」ではないのだ
が、ココは指摘もしなかった。サニーが「久しぶり」と言った
ら久しぶりなのだ。三時間前に会ったばかりなのに、「久しぶり
だな」と言われたこともある。
 さっさとリビングダイニングまで上がり込んだ猫は、空っぽ
のソファを見て、首を傾げた。
「珍しいな。一人か。トリコはどした?」
「まだ帰ってないんだ」
「あいつが?ンな時間まで?メシも食わずに?」
 ココと手付かずの鍋を交互に見る。
 ココが頷き返すと、サニーは、何やらよからぬことを思いつ
いたらしく、にんまり嗤った。
「発情期じゃね?」
「発情期?」
 思いがけない単語に、一瞬反応が遅れた。
「何ぽかんとしてんだよ。あいつだって犬なんだから、発情期
くらいあんだろ」
「それは……そう、だろうけど……」
 確かにあるだろう。だが、考えたこともなかった。まるで人
間のように、いつもココの傍にいるから、忘れていたのだ。
「けど、時期外れじゃないか?そういうのはもっと前、春に来
るものだろう」
「俺たち猫なら、な。犬は季節関係なしだ。イイ感じのメスが
いりゃ、十分ってことさ」
 ココは赤面した。
 犬の飼い主として当然の知識すらなかった、という恥ずかし
さもあるし、あけすけなサニーの言いように面食らった、とい
うのもある。
 だが、それだけではない。
 発情したトリコを想像したら、いたたまれないような、妙に
落ち着かない気分になったのだ。このままでは、まともにトリ
コの顔を見られない。
 落ち着け、と自分に言い聞かせる。何をうろたえているんだ。
相手は犬じゃないか。
 ココの胸をかき乱した張本人は、けっけと笑って畳み掛けた。
「食欲バカにも一丁前に発情期は来るんだな。どんな相手だか、
見てみたくね?」
「いや、僕は別に……」
 見なくていいよ、と言いかけた時、またドアが開く音がした。
噂をすれば影だ。
「ただいま」
 のっそりと入って来たトリコは、まずココに声を掛け、それ
から、
「来てたのか」
とサニーに目を移し、太い眉根を寄せた。
「何にやにやしてんだ。気持ち悪ィな」
「るせ。お前こそ、ンな時間まで何してたんだよ」
「たいしたこっちゃねェよ」
「ンなわけねェだろ。な、な、お前、どんなんが好みなんだ?」
「あ?何言ってんだ、お前」
「とぼけんなって」
 浮かれた調子で、サニーはトリコの肩を抱いた。
「メスんとこ行ってたんだろ?良かったじゃねェか、相手して
くれる奴が見つかってよ」
「メス?相手?」
「だから、発情期の……ん?」
 サニーが固まった。トリコの分厚い肩から、何かをつまみ上
げる。
「こいつは……」
 白い指先が挟んだものを、つり込まれるように、ココも見た。
黒っぽい毛だった。


                       (オフラインへ続く)



2010.4.29
前回の更新から丸々一ヶ月あいてしまいました(汗)
この間に、無事に本作のオフライン、入稿いたしました。
続きは、5月3日スパコミ発行のオフラインでどうぞ。
三井が遅筆なため、中途半端なところまでしかオンライン