彼と彼の領域〜Q〜



これまでの調査で、『彼』が決まりごとや指示された事柄を遵
守するタイプであることは判っている。
ただ従順なわけではない。マイペースだし、どちらかと言えば
頑固なのだが、専門家の意見にはよく耳を傾ける。
医者からこれこれこういう生活習慣を心がけなさい、と言われ
たら、その日から確実に実行するタイプだ。
間違いなく、今夜から犬に薬を飲ませているだろう。
男は、ドアの前に立った。何度もそこに立ち、そこから出て来
る彼を待った、玄関のドアだった。
腕時計を見た。午前零時半。
『彼』も寝ているのか、内側からは物音一つしない。
そっとドアノブを回してみたが、当然、鍵がかかっていた。
戸締りを怠らないのはいいことだ。他の奴に奪われる心配が
ない。
ピッキング用の針金を、ポケットから取り出した。
前の二回もこれで開けた。褒められた話ではないが、テクニ
ックには自信がある。
果たして、一分とかからず手ごたえがあった。
ノブを回し、引く。ドアが外側に開いた。
こんばんは。胸の内で挨拶して、そろりと玄関に忍び込む。
中は真っ暗だった。
どこの家にも、匂いはあるものだが、この家は微かに香の匂い
がした。占い師がよく焚くようなエキゾティックな香ではなく、
品の良い和風の香りだ。
玄関の正面に掛けられた、小さな額に入った絵の柄が見えるま
で目を慣らしてから、靴を脱いだ。
フローリングの廊下が、左手側に伸びている。廊下の突き当た
りは、リビングダイニングとキッチンのようだった。奥に向か
って右手に、二階へ上がる階段があり、左には、玄関と並ぶ
ように一つドアがある。風呂場と洗面所だろう。
まっすぐに、二階の『彼』の部屋へ向かえば良いのだが、ここ
で悪戯心が湧いた。
『彼』の生活を覗いてみたくなったのだ。
ずっと観察はしていたが、今いるのは、まさに『彼の領域』な
のだ。ここで触り、嗅ぎ、味わうのは、『彼』に触り、『彼』
を嗅ぎ、『彼』を味わっているのと同じことじゃないか。
むずりと股間が疼いた。本命は、後だ。『彼』の前菜として、
『彼』の生活を味わおう。
床を滑るように、廊下の奥へと向かった。
階段の前を横切ろうとした、その時、
「こンの、レイプ野郎!」
階段の半ばから、何かが飛び掛かって来た。バリッと音がして、
顔に鋭い痛みが走る。
「ギャッ!」
何が起きたかは判らないが、とにかく逃げなければ。
必死で襲撃者を振り落とし、命からがらリビングダイニングに
転がり込む。
だがそこにも、刺客は潜んでいた。
「行ったぜ、トリコ!」
背後の何かが叫んだ。
『トリコ』。
『彼』が、突然飼い始めた犬の名前だ。あの薬を、飲まなかっ
たのか。
巨大な獣が咆哮を上げ、襲い掛かって来る。
「ギャーッ!」
両肩を、固くて分厚いものに掴まれたかと思うと、頭からがぶ
りと噛まれた。脳天と額に、太い錐のようなものが突き刺さる。
死を覚悟した瞬間、部屋が明るくなった。
趣味のいい棚やソファが置かれたリビングが照らし出される。
「夜中に何をしているんだ、トリコ!」
『彼』の声がして、男は肩を震わせた。
ずっと、間近で聞きたいと恋い願っていた声だった。
が、こんな状況で聞く羽目になるとは──最悪だ。
頭蓋骨を貫通するかと思われた錐が、抜けた。ずぽっと音ま
でした気がする。
「見りゃ判るだろ。連続暴行犯を捕まえたんだよ」
「暴行犯って……でも、この人は……」
男はますます身を縮めた。いっそ砂粒か埃か、目に見えないほ
ど小さくなってしまいたい。
せいぜい小さくした背中に、『彼』の声が突き刺さった。
「この人、警察官じゃないか!」


                            (続く)



2009.10.4
サニーとトリコによる挟み撃ち。
『前門の狼、後門の虎』。