彼と彼の領域〜M〜


蛸獣医が体をすり寄せる。
白衣か、それとも肌に直接染み付いたものか、ぷんと薬の臭い
が鼻をついた。
べとつくような猫撫で声が、耳を舐める。  
「人間でも気持ちいいでしょう?犬も同じですよ。しかし、もし
これでも言うことを聞かないようなら──」
ウオッと獣の咆哮が上がった。続く、蛸獣医の悲鳴。
「トリコ!」
医療器具や薬瓶が乗ったワゴンを弾き飛ばし、トリコが獣医に
飛び掛る。
派手な音を立てて瓶が割れ、混じり合った液体が、強烈な色に
変わった。妙な臭いまで立ち昇る。
「トリコ、ちょっと落ち着けって……」
化学反応でも起こしているのでは、と気になったのだが、獣医
は逃げるのに必死だし、トリコは完全に我を忘れていて、どち
らもココの声など聞いていない。
ギャッと獣医が叫んだと思ったら、トリコごと床に転がった。
頭にがっぷりと噛み付かれ、必死にもがいている。
立ち尽くすココを見上げると、懇願するように手を伸ばした。
「た、助けて……!」
「そう言われても……」
獣医の顔は、流れ落ちる血でまだらになっていた。
トリコの牙は、完全に頭皮に食い込んでいる。下手に引き剥
がそうとすれば、頭の皮まで一緒に剥がれてしまいそうだ。
どうしよう。
周囲に目を走らせ、ココは、かろうじて割れずに残った瓶に
目を留めた。
『オキシドール』。
充満した異臭にもびくともしないトリコがひるむかどうかは
判らなかったが、とにかくココはその瓶を掴み、蓋を開けた。
揉み合う二人──一人と一匹か──に近付き、瓶の口を直接、
トリコの鼻先に近付ける。
途端、
「ギャン!」
ひと声、トリコは叫び、悶絶した。

               × × ×

動物病院での騒動とその結末は、トリコのプライドをいたく傷
つけたらしい。
帰りのタクシーで(担いで帰るには、トリコはオーバーサイズ
だった)目を覚ました彼は、それからひと言も口をきいていな
かった。
気持ちの悪い蛸獣医から飼い主を守ったつもりが、その飼い主
に失神させられたのだ。傷心ぶりは理解出来なくもない。
が、
「仕方がないだろう。お前は頭に血が昇っていて手が付けられ
ないし、先生の頭からはどくどく血が出て来るし。引き離す方
法を、他に思いつかなかったんだよ」
薬箱を手に、ココはトリコが座るリビングのソファに、腰を下
ろした。
ふいとそっぽを向く犬に、ココは溜息を吐いた。
「手、見せてごらん」
促したところで、どうせ素直に従うとは思えない。有無を言わ
さず手を掴み、指を広げさせた。
初めて、トリコがむっつりと呟いた。
「痛ェよ」
「ガラスで切ったんだ。当たり前だろ」
獣医と取っ組み合った時に、床の破片で傷つけたのだろう。
トリコの手は、小さな切り傷だらけだった。
消毒液を取り出そうとすると、
「もう薬は勘弁してくれ」
と、情けない声を出された。
「でも、一応消毒くらいはしておかないと」
「絆創膏でも貼っておきゃいいよ。それより、腹減ったな。飯、
まだ?」
ココは反射的に時計を見上げた。


                            (続く)



2009.8.23
本格的に犬が欲しくなって来ました…。
犬飼いたい。いや、トリコじゃなくて。