彼と彼の領域〜L〜


「犬猫用の栄養剤です。毛艶も良くなりますから、グルーミン
グの一つとして使ってください」
毛艶というなら、トリコよりむしろサニー向きではないだろう
か。今度小松に会ったら薦めてみよう、などと考えていると、
「それでは」と獣医がおもむろに立ち上がった。
「お約束どおり、自宅で出来るケアについてお話しましょうか。
基本は、毎日のブラッシングから……」
言いながら、壁際に置かれた滅菌機からブラシを取り出し、ト
リコに近付く。
襟足で一つに縛っていた髪を解くと、一見無造作に見える手つ
きで、ブラシをかけた。
「短毛種なら、さっと濡れたタオルで拭く程度でもいいんです
が、これくらい長い場合は、やはりブラシを使った方がいいで
しょう。こう、一度毛を持ち上げて、根元から立てるようにか
けて、それから、毛の流れにそってかければ、もつれも綺麗に
梳けますよ」
前回の一件があったので、また獣医に向かって威嚇でもするの
ではと、内心はらはらしていたのだが、どうやら杞憂だったよ
うだ。逆毛を立てられようが、髪の毛を掻き分けられようが、
トリコはおとなしく、されるがままになっている。
「ブラッシングのついでに、ボディチェックをしておくことを
お勧めします」
「ボディチェック?」
「何、難しいことじゃありません。耳にダニが付いていないか、
目は充血していないか、目やには出ていないか、歯肉炎は起こ
していないか、そういうのを確認するだけです」
獣医はブラシを置くと、今度はまた無造作な手つきでトリコの
頭にぴょこんと生えた二つの耳を掴んだ。
「痛でででで」
「この時、嫌がって暴れたりしないように、押さえます。小さ
い子なら、膝の上に抱いてあげればいいんですが、彼の場合
は大きすぎて、とても抱っこは出来ないので、こんな風に……」
トリコの首に腕を回し、頭を固定する。トリコが、ぐえっと蛙が
潰れたような声を出した。
「頭を押さえておいて、手早く調べます」
「あのぅ、トリコが苦しがってるようなんで、その辺でもう……」
見かねたココが止めに入っても、獣医の説明は止まらない。
「目の周りは濡れたタオルで拭いて清潔にしてください。で、
こうして押さえている間にですね、全身をさっと撫でてみてく
ださい」
見る間にトリコの腕に鳥肌が立った。獣医の手が、腕から肩、
胸の筋肉をなぞったからだ。
「脂肪が付きすぎていないか、おかしなしこりはないか、確認
します。そうそう、もし嫌がる時はここを擦ってやると、大人し
くなりますよ。足の付け根」
「足の……!」
音がしそうな勢いで、トリコの髪が逆立つ。が、被害者はトリ
コではなかった。
「ひやっ!」
ココは、椅子ごと30センチも後ろに下がった。獣医が、やにわ
にココの太ももの付け根を掴んだのだ。
「貴方で言うなら、この部分です。ここをこう、揉むように、で
すね」
あんぐりと口を開けたトリコを尻目に、獣医は親切らしく指を
動かしてみせる。
さすがに怖気がして、ココは立ち上がった。
「ちょっと、あの、やめてください」
押し返したり体をよじってみたり、逃れようとするのだが、どう
したわけか貧弱そうな指は、がっちりとココに食いつき離れな
い。
昔、知人に連れられて行った釣りで、うっかり手に絡み付か
れ、離れなくなってしまった蛸を思い出した。


                            (続く)



2009.8.16
ご無沙汰しておりました。
まるまる二ヶ月ぶりの更新です。