彼と彼の領域〜K〜



               × × ×

二週間後、ココはトリコを連れて、再び動物病院を訪れた。
今日は誰もいない待合室で待たされること一分、若い院長の
声が、
「如月さん」
と直接ココを呼び入れた。前回は看護師とも事務員ともつかな
い若い女性がいたのだが、今日は休みなのか、姿がない。
「その後、いかがですか。体調を崩したとか、気になることは
ありませんでしたか」
「ええ……」
答えながら、ココは隣に座るトリコを見た。自分のことが話題
にされているというのに、まるで気にしていない。壁に貼られ
た『フィラリアを予防しましょう』だの『鳥インフルエンザの
正しい知識』だののポスターを、物珍しげに眺めている。
予防も知識も必要ないほど、トリコはすこぶる元気だった。
相変わらずココの懐具合も気にせずよく食べるし、散歩に連れ
出せば、もう帰ろうと声を掛けるまでひたすら動き回る。
気になることと言えば、折角二階に部屋を用意してやったとい
うのに、夜は一階のリビングで寝るようになったことくらいだ
が、これは病気や怪我とは関係がない。
「飼い主より元気です」
「それは結構」
獣医は笑った。
「それにしても、よく鍛えたいい体をしていますよね。とても
野良だったとは思えないな」
トリコの背中に聴診器を当てながら言う。
「おそらく、どこかで飼われていたんでしょう。これだけ見事
な筋肉だ。徹底した管理の下での運動と食事でもなければ、無
理ですよ」
「そうなんですか?」
飼い主がいたことは判っていたが、それほど手を掛けられてい
たとは思わなかった。初めから酷い扱いを受けていたわけでは
ないのだ。
あるいは、途中で飼い主が変わったか。
「もし逃げて来たのなら、飼い主は探しているでしょう。新聞
の『迷い犬』欄や、インターネットは見てみましたか?」
「……いいえ」
獣医の手が止まった。不審そうな目をココに向ける。
「探している人がいるかもしれないのに、まったくご覧になら
なかったのですか?」
答えようもなく、ココは黙った。
拾った時、トリコがどんな状態だったか、獣医には話していな
い。傷も跡形もなく消えていたので、いちいち説明もしなかっ
たのだが、事情を知らない人間から見れば、ココの対応はいか
にも不自然だ。
かといって、理由を話して理解してもらえるとは限らない。
「どんな飼い主だろうと、お返しするのが当然でしょう」など
と言われたらそれまでだ。
何と言って切り抜けたものか迷っていると、面倒くさそうに
トリコが口を開いた。
「誰も探しちゃいねェよ。飼い主だった爺さんが死んで、飯を
くれる人間がいなくなったから、腹が減って出て来たんだ」
初耳だった。獣医も訊ねる。
「誰も面倒をみてくれなかったのかね?その、飼い主だった人
のご遺族とか?」
「遺産をむしり合うのに必死で、犬っころのことなんか忘れて
たんだろ」
「それはそれは……」
気の毒そうに獣医が首を振る。彼から見えない角度で、トリコ
はココを振り返った。悪ガキよろしく、ぺろりと舌を出す。
──嘘かよ!
呆れるココに、獣医が言った。
「そういう事情では仕方がないですね。折角の筋肉を落とさな
いように、バランスの取れた食事と、充分な運動、それに見合
った睡眠を取らせてあげてください。ああ、そうそう」
思い出したようにデスクの引き出しを開け、銀色の包みを取り
出す。
「ちょうどいい。午前中届いたばかりの薬です。夜寝る前に飲ま
せてください。夕食時でも結構です」
「何の薬ですか」
アルミ製のパックに入った、小さな錠剤だった。


                            (続く)



2009.6.21
大型犬は普通一日一食ですが、トリコ犬は三食どころか、多分
一日五食は固い(某海賊漫画の船長とお揃い)