彼と彼の領域〜J〜


それが、口々に何か叫んでいる。今度は、はっきりと聞こえた。
──助けて!潰さないで!
靴に踏み潰された顔は、もう喋らない。その周りで、必死に
懇願する小さな小さな顔、顔、顔。
砂漠は、無数の人間たちの群れだ。数え切れないほどの人間
がいるのに、誰一人、ココと心を通わせる者はいない。ただ、
助けてくれ、殺さないでくれと懇願するばかりだ。
恐怖と孤独から逃げ出したかった。しかし動くことも出来な
い。一歩でも動けば、足の下で誰かが潰れ、死んでゆく。
喉から、叫びがほとばしった。
助けてくれ──!
不意に、砂漠の風景が掻き消えた。乾いた色の空も、大地を
埋め尽くす小さな顔も消え、世界のすべてが闇に落ちる。
「ココ」
耳元で、低い男の声がした。太くがっしりとした腕に、抱き
込まれる。
「大丈夫だ。俺がいる」
全身から力が抜けた。
この腕は信じられる。『見えた』わけではない。本能がそう
告げている。
「安心して眠れ。もう、嫌な夢は見ない」
その声に誘われるように、強い眠気を感じた。
お前は誰だ。訊きたかったが、口を動かすのももう億劫だっ
た。
眠ろう。彼が見ないと言うのなら、きっともうあの恐ろしい
夢を見ることはないのだ。
背中に回された腕に、身を預ける。
すぐに、本当の暗闇が来た。

                × × ×

ココの呼吸が完全に寝息に変わるのを待って、トリコはベッド
を抜け出した。
起こしてしまうかと思ったが、今度の眠りは深く、ココは目を
覚まさなかった。
フローリングの床を音を立てないように歩き、開け放ったまま
にしておいたドアから廊下に出ると、そっとドアを閉めた。
階段を降りる時も、足音には気をつけた。
ココの眠りを妨げないため、それだけではない。動き回って
いる音を聞かれたくない相手が、もう一人いた。
一階に降りきると、右手にあるダイニングのドアを開けた。
キッチンもダイニングテーブルも、几帳面な家主の性格を示し、
綺麗に片付いている。真夏でも、捨て損ねた生ごみや澱んだ排
水孔の臭いなどとは無縁だろう。
明かり一つない室内を、大きな体に不釣合いなほど軽い身ごな
しで通り抜け、トリコはリビングの窓際に立った。
窓もカーテンも閉じたままだが、それでも判る。真夜中の町を
歩き回る、何者かの気配。
足音と匂いから、二人だとトリコは判じた。
小一時間も前から、二つの気配は、この家の周囲を何度も行き
つ戻りつしていた。
足音が家の前で止まったのを感じて、流石にこれは知らせよう
と寝室に入ったところで、ココがうなされ出したのだ。
ココが落ち着くのを待っている間に、また足音は遠のいたが、
それでも町の中を動き続けていることに変わりはない。
トリコは息を潜め、気配を探った。
原付バイクが一台、軽自動車が一台、二つの足音の主と擦れ違
ったが、トラブルらしい音は聞かれなかった。不審を抱かせる
ような外見ではないのだろう。
その後、二つは離れることなく、三十分ほど歩き回っていたが、
二度とこの家には近付くことはなかった。
気配が完全に消えると、トリコは深く息を吐き出し、リビング
のソファに座り込んだ。
暫く、夜はここで寝ることにしよう。
二階の部屋で寝ろとココは咎めるだろうが、それどころでは
ない。もしあれが、ココの言っていた事件の犯人なら、厄介な
ことになりそうだった。
トリコが耳を澄ましている間、どこかで犬が吠えたのだ。見知
らぬ者、不審者の接近を知らせる警報──それが、ほんのひと
声、ふた声鳴いただけで、ぴたりと止まった。殺されたわけで
はない。その後も、犬の気配はしている。
つまり、手懐けられたということだ。
二階からは、何の物音も聞こえなかった。今夜はココも、もう
うなされることはなさそうだ。
トリコは、ごろりとソファに転がった。


                            (続く)



2009.6.14
最近、あまり外で犬を飼っている家って見かけないですね。