彼と彼の領域〜D〜


               × × ×


「まったくもう、お医者さんを脅かすんじゃないよ。これから
何度もお世話になるかもしれないんだぞ」
 病院からの帰り道、隣を歩くトリコをココは嗜めた。
 横目でじろりと睨まれる。
「いいよ、別に。あんな変態野郎の世話になんか、ならねェか
ら」
「変態って……親切にしてくれた相手に、失礼だろ。折角安く
してもらったのに」
「ああ?」
「規格外の大型犬なのに、小型犬の料金で診察してくれたんだ
よ。診察代が高いと、まめに通えないだろうからって」
「おい、ココ」
 眉間が険悪な皺を刻んだ。不機嫌なのは、無理矢理付けた
新しい首輪とリードのせいだとばかり思っていたのだが、どうも
それだけではなさそうだ。
「まさかお前、本当にそれをただの親切だなんて、思ってねェ
よな?」
「親切以外に、何かあるのか?まあ、開業してそれほど経って
いないらしいから、多少商売っ気はあるだろうけど……」
「そういうことじゃなくてな。やっぱり、判ってねェか」
 犬に盛大な溜息を吐かれてしまった。ぼりぼりと顎を掻き、
トリコは言った。
「まあ、いいや。それで、今度はいつ来いって?」
「二週間後。自宅で出来るケアの話だって言っていたから、
もしお前が行きたくないなら、僕一人でも」
「俺も行く」
 即答だった。
「嫌じゃなかったのか」
「嫌だから行くのさ」
 よく判らない。ココは首を傾げた。
 だが、判らないと言うなら、何よりトリコ自身のことだ。
 獣医の診察でも、全くどこにも問題は見つからなかった。
あれだけの怪我が、綺麗さっぱり、たった数日で完治している。
 どう考えても、『ただの』迷い犬とは思えない。
 一体、何者なのか。
「あ」
 突然、トリコが立ち止まった。
「どうした?」
 リードを握るココも止まる。
 トリコが、くんくんと鼻をひくつかせた。探し物をするように、
四方八方に鼻先を向けていたが、
「食い物の匂いがする」
「食べ物?」
 見渡しても、周囲は似たような家が延々と続くばかりで、飲食
店の類は見当たらなかった。どこかの家で、早々と夕餉の支度
でも始めたに違いない。
「そういえば、腹が減ったって言ってたよな。買い物をして、早く
帰……」
 突然、トリコが猛烈な勢いで駆け出し、ココはリードを握り締
めた。
「おい!トリコ!」
 呼び掛けても、止まるどころか返事もしない。
 強く引っ張られすぎて、腕が肩から抜けそうになった。革の
リードの繋ぎ目が、不穏な軋みを上げる。
 引きずられるようにして200メートルほど走ったろうか。漸く
トリコが振り向いた。
 かと思うと、
「面倒くせェや」
「こ、こら!」
 腰に太い腕が回り、視界がぐるりと回った。
「離せ、トリコ!」
 俵担ぎにされ、ココは慌てた。
「どこに行く気だ!家はこっちじゃないぞ!」
 再びトリコが走り出し、ココは口を噤んだ。喋ると舌を噛み
かねない。
 引きずるより担いだ方が楽なのか、先刻よりはるかにスピー
ドが上がっていた。曲がる筈だった十字路が、あっという間に
後ろに遠ざかる。
「ああ……」
 道行く人が目を丸くして見ているのが判った。無理もない。
犬に担がれて散歩する人間など、そうお目にかかれるものでは
ないだろう。
 やがて、車通りの多い都道との交差点に差し掛かった。
 音を立てて血の気が引いた。
 まずい。
 信号は赤。だが、トリコの脚は止まらない。スピードは落ち
ない。
「トリコ!待て!」
 無駄と知りつつ、ココは叫んだ。この状況で止めない者がいる
としたら、状況が判らない赤ん坊か、悟りを開いた坊さんくらい
だ。
 案の定、トリコは止まらず、トップスピードのまま車道に飛び
出した。
 左右で、急ブレーキの嵐が巻き起こった。
 タイヤを滑らせ、バイクがスピンする。レガシィ・ツーリング
ワゴンのフロントガラス越しに、引き攣ったドライバーの顔が
見えた。
「馬鹿野郎!ちゃんと繋いどけ!」
 これまた忽ち遠ざかる罵声に、
「すみません……」
泣きたい気分でココは謝罪した。一応、繋いでるんですけど。
 やはり、躾は急務だ。
 家に帰ったら、「待て」を真っ先に教えよう。
 トリコの肩で揺られながら、ココはそう心に誓った。
 

                            (続く)



2009.4.23
だいぶ間を空けてしまいました(汗)
トリコ……「マテ」を覚えるのは早そうだけど、涎ダラダラ流し
ながら待つタイプ?