彼と彼の領域〜B〜


  気味の悪さより好奇心を覚えて、ココは、満足げに腹をさす
っている犬を眺めた。
 食事の前にバスルームに押し込んだお陰で、ようやく汚れて
いない顔を見ることが出来た。
 普通、鋭い目つきや傷痕は、狂犬を連想させるとして嫌われ
るものだが、彼の場合、くるくるとよく変わる人懐っこい表情
がそれを救っている。
 腹を空かせている時はしょぼくれて垂れ気味だった両耳も、
今はぴんと立ち上がっていた。
 健康そうだし、性格も悪くない。
 躾が入っていないのと、多少大食いなところに目をつぶれば、
飼うのにそう苦労はなさそうだ。これなら新しい飼い主もすぐ
に見つかるだろう。
 問題は、どうやって貰い手を捜すか、だ。
 あいにくココには、犬を欲しがっている知り合いはいなかっ
た。
 愛護協会は駄目だ。引き取ってはくれるが、貰い手が付かな
ければ、結局行き着く先は保健所と同じだと聞いたことがある。
 インターネットや新聞のペット欄を利用するのも、ためらわ
れた。出来れば、相手の人となりを知った上で、譲りたい。
 誰か犬を飼いたがっている人はいないか、知り合いに当たっ
てみるか。
 いっそ、店に貼紙をしてもいい。あそこなら、客とは少なく
とも顔を合わせているのだし、もし希望者が客本人でなかった
としても、頼めば会わせてくれるだろう。
「──ン?」
 トリコが顔を上げた。ぴぴっと耳が動く。
「どうした?」
「……足音がする」
 耳を澄ましたが、当然、外を歩く人の足音などは聞こえなか
った。
 だが、人が歩いていたとしても不思議はない。
「そりゃあ住宅地なんだから、足音くらいするさ」
 それでもトリコは納得しなかった。
「二人連れだ。もう何度も、この辺りを行ったり来たりしてる。
それと……」
 立ち上がり、ダイニングとひと続きになったリビングに移動
した。庭に面したガラス戸を細く開ける。
「嫌な臭いがする。火薬と、油だ」
「油?灯油?」
「違う。機械油みたいな……」
 火薬と機械油の臭いをさせ、同じところを歩き回る二人組。
と、いったら。
「大丈夫、警察だ。お巡りさんだよ」
「お巡り?」
 トリコが機械油と思ったのは、拳銃に差す油のことだろう。
「最近、このすぐ近くで、家まで後を尾けて来て、無理矢理押
し入って乱暴を働こうとする奴が出たらしくてね。犯人がまだ
捕まっていないものだから、ああやって昼間でもパトロールし
てるんだよ」
「ふぅん……」
 四月上旬の風は、まだ少し冷たい。
 ココも立ち上がり、ガラス戸を閉めた。
 ガラスの向こうには猫の額ほどの庭があり、トリコが頭を突っ
込んでいた植え込みを隔てて、一方通行の生活道路に面して
いる。
 不意に、トリコが訊いた。
「襲われたのは一人か?」
「いや……全部で三件だったと思うけど」
「皆、女か?」
「女性が二人に、男性が一人」
 共通しているのは、男女とも20代半ばという点だけ。
 だから、注意を呼びかけに訪ねて来た制服警官も、困惑して
いたのだ。
『狙われているのが女性だけならまだ警戒もしやすいんですけ
どね。逆に言えば、女性の住まいだけを気をつけていればいい
んですから。ですが、今回の犯人は男性も対象にしているので
……20代の住人全部に目を配るなんて、正直難しいですよ。
なので出来るだけ、自衛策を取って頂くようにお願いしている
んです』
 自衛策と言っても、やれることは限られている。 
 子供ではあるまいし、日が落ちないうちに帰って来るという
わけにもいかない。成人した男で、一人暮らしをしている以上、
迎えを頼むことも出来ない。
 せいぜい、戸締りにいつも以上に気を遣い、夜間は玄関灯を
点け放しにしておくくらいだ。
「そんなら、俺が一緒にいてやるよ」
「え?」
 瞬きするココに、トリコはにぃっと笑った。


                            (続く)



2009.4.1
『多少大食い』……目をつぶる前に家計がつぶれると思うよ、
ココたん。