彼と彼の領域〜A〜
× × ×
彼がココの前に現れたのは、三日前だ。
朝、玄関のドアを開けたら、イヌツゲの生垣に頭を突っ込んで
倒れていたのだ。
驚いて家の中に運び込もうとしたのだが、彼は犬にしては破格
の大きさで、まず担ぐのは無理。
押したり引いたり四苦八苦して、何とか玄関の中まで引きずり
込んだが、その間も犬が目を覚ますことはなかった。
後から判ったことだが、ココの家の庭先で力尽きて倒れるまで
の三日間、殆ど飲まず食わずだったらしい。出血や痛みではなく、
空腹で動けなくなっていたのだ。
彼は、全身傷だらけだった。
乾いた血がそこかしこにこびりついていたが、それよりココの
目を引いたのは、がっしりと太い首に残る、赤黒い痣だった。
起こさないように気をつけて、硬い癖毛を掻き上げてみると、
痣はぐるりと首を一周していた。
昨日や今日出来たものではない。長いこと食い込んでいた、
首輪の痕だ。左の手首にも、同じような痣が残っている。
左目の下から耳にかけては、何か鋭い物で引っ掻いたのか、
みみず腫れのような三本の傷痕もあった。
不安はあったが、仕事を休むわけにもいかない。判る限りの
傷の手当をして、毛布をかけてやって、家を出た。
食べるかどうか判らなかったが、一応簡単な食事も作り、上
がり框に置いておいた。
夕刻、帰宅してみれば、彼はまだ寝ていた。
食器は綺麗に空になっていたから、一度は目を覚まして食べ
たのだろう。
その状態が翌日も続き、翌々日──すなわち昨日の朝。
様子を見に行ったココの前で、初めて彼はむっくりと起き上
がり、よく光る目を瞬かせ言った。
「腹減った。何か食わせて」
その筋骨隆々とした体つきから、それなりに予想はしていた
が、実際に目を覚ましてからの彼の食欲は、ココの予想をはる
かに上回るものだった。
作ってあった朝食はわずか数秒、冷蔵庫の買い置きも戸棚の
保存食も、たちまち食い尽くされ、朝っぱらからココは、仕事
もそっちのけで大量の食料を買い出しに行く羽目になった。
『トリコ』という彼の名前と、ずっと何も食べていなかった
ことを知ったのは、買い出しから戻って、山盛りの焼きそばを
作っている時だ。
これまた極太の尻尾を振り回し、滝のように涎を垂らして待
つトリコから聞き出したのだ。
「ずっと、ってどれくらいだ?」
「三日」
ずるるっと派手な音を立てて、焼きそばを啜り込み、トリコ
は答えた。
「迷って家に帰れなくなったのか?まさかずっと野良だったっ
てことはないだろうから、どこかに飼われていたんだろう?」
「ねェよ。家なんて」
こともなげにトリコは言った。
「飼ってた奴は、いたけどな」
意味深な言葉だったが、それ以上聞くのは止めておいた。首
と手首の痣を思い出したからだ。食い込んだ首輪をそのままに
しておくような飼い主など、いずれろくなものではない。
──痣?
ココは、眉をひそめた。
皿まで噛み砕く勢いで食べ物を平らげていくトリコの、手首。
嫌がってむしり取ってしまったのか、包帯は既になく、そこ
に確かにあった痣もまた、消えていた。
さっと椅子から立ち上がり、ココはトリコの髪を掻き分けた。
トリコが不満げな声を上げる。
「何すんだよ」
「ごめん、ちょっと見せてくれ」
かろうじて首に絡んでいた包帯を解いてみれば、
「やっぱり、ない……」
呆然と、ココは呟いた。痣はどちらも、二日やそこらで消え
るような軽いものではなかった。
なのに、今残っているのは、顔の三本の傷痕だけだ。
奇妙だ。
(続く)
2009.3.25
考えてみたら、人生初めての獣耳ものでした(笑)
ピントっ外れだったらゴメンナサイ!これがうちの獣耳です。