彼と彼の領域・U


 待合室は、空いていた。
 それが平日の午後二時という時間帯のせいなのか、それとも
経営者の腕のせいなのか、ココには判らなかった。
 自宅の近所だから、何度もこの前を通ったことはあったが、
実際に中に入るのは初めてなのだ。
 ココ以外の客は、もう一人──一組だけだった。壁に沿って
向かい合わせに置かれたビニールのソファに座っている。
 24、5と思しい青年だ。小柄で髪を短く刈り、小鼻の広がった
愛嬌のある顔をしている。
 斜め向かいにココが腰を下ろすと、軽く会釈をして、はにか
んだような笑みを浮かべた。
「初めまして、ですよね」
 ココは頷いた。どうやら常連客のようだ。
「こちらに来るのは、初めてです。というより、こういう場所
に自分が来ることになるとは、思わなかった」
「僕もですよ」
 少し笑った青年の目が、何かを探すように建物の入り口に向
けられた。
 たった今、ココが入って来たガラス扉の向こうは片側一車線
の舗装路だが、時折歩行者や車が通り過ぎるだけで、入って来
る者はいない。
 ココは言い足した。
「そこまで一緒に来たんですが、入ろうとしたら臭いが嫌だと
言い出して……その辺でうろうろしていると思います」
「嫌がりますよね。うちも初めはそうでしたから」
「今はそうでもない?」
「ええ。ここって美容院も併設じゃないですか。それで、先々
月……」
 待合室の突き当たりの壁が開き、会話が途切れた。
 壁と見えたのは、同じ白に塗られたドアだったのだ。
 客用の化粧室から出て来た『それ』を見て、ココは一瞬、
呆気に取られた。
 手入れの良さを伺わせる、ふわふわと手触りの良さそうな毛。
膝裏に届くほどそれは伸びていたが、ココが驚いたのは、長さ
のせいばかりではなかった。
 色だ。
 白を中心に、薄いピンク、青、緑が、幾筋もの流れを作って
いる。
 南国の鳥も尻尾ならぬ尾羽を巻いて逃げ出しそうな色彩を纏
った『それ』は、まず青年を見、それから、ココに目を移した。
 切れ長の勝気そうな目元が、数度瞬きを繰り返したかと思う
と、俄かに険しくなった。
「松」
 低く押し殺した声がして、青年が、微かに息を呑んだ。
「誰、こいつ」
「誰って……僕らと同じですよ。ここに用があって来た、お客
さんじゃないですか」
「ふぅん?」
 語尾が上がった。疑っているらしい。何をどう疑っているの
かは知らないが。
「──!」
 ココは、咄嗟に身を引いた。
 何かに頬を撫でられたような感触があった。ごく細い糸状の
もの、粘り気のない蜘蛛の糸のようだ。
「客のくせに『連れ』がいないってのは、変じゃね?」
 四つの色がざわざわと波打ち、生き物のように蠢き始める。
 ココは目を見開いた。
 色彩から、更に無数の糸が伸びているのが、はっきりと見え
た。窓から入る日差しに金色に透け、渦を巻き、広がり、ココ
に向かって伸びて来る。
 青年が、慌てて腰を浮かせた。
「サニーさん!」
「連れ、いねェの?」
 不思議な糸が、ココの喉に絡み付く──寸前で、さっと引い
た。
 すぐに、理由は判った。
 いつの間にか、『彼』が入って来ていたのだ。
 すぐ傍らで、飄々とした声がした。
「連れならいるぜ、ここに」
「……トリコ」
 次の瞬間、フーッと威嚇の音を立て、大きな猫──サニーは、
派手な尻尾を膨らませた。
「犬っ!」


                            (続く)



2009.3.21
トリコにはまりたての頃、たまたま同人とは全く関係なく、動物病院
のことで猿人さんと話したことがありまして、その時に思いついた
ネタ。変な話ですみません(涙)が、続いてしまいます。