遠雷


「ココさんは、僕らには見えないものが見えるんですよね」
 小松の声が、湿った岩壁に反響し、重なり合って聞こえる。
 洞窟の砂浜からの帰りだった。
 他に目的地に辿り着いた者はいなかったのか、すれ違う人影
はない。
 小松のヘルメットに装着された懐中電灯の明りに、前を行く
トリコの背中と、彼の大きな影が浮かんでいる。
「どんなものが、どんな風に見えるんですか?ああ、失礼な
ことを聞いてしまっていたら、すみません」
 口にしてから、慌てて小松は両手を振った。ココは笑った。
 半日前、初めて小松を見た時の印象は、騒がしくてお世辞に
も上品とは言えない若者だった。
 今は違う。純粋さに裏打ちされた、嫌味のない好奇心と熱意
は、嫌いではない。むしろ、好感が持てる。
「大丈夫、失礼だなんて思っていないよ。そうだね、僕が見て
いるのは、小松君たちが見ている『物体』だけじゃない、と言
えばいいのかな」
「『物体』だけじゃない……」
「物体には形があって、質量がある。それは普通、小松君たち
の目にも見える」
「はい。牛や豚や鶏、魚介類や、野菜、果物とかですね」
 例がことごとく食材というのが、可笑しい。
「有機物だけじゃないよ。車や飛行機、パソコンなどの機械、
水やアルコールなどの液体、色を付ければ、気体も目にする
ことが出来る」
「ええ、判ります」
「じゃあ、魂はどう?見たことある?」
 小松は面食らったような顔をした。
「幽霊を見たことがあるか、って意味ですか?そんなのありま
せんよ。ココさんは、あるんですか」
「あるよ」
 あっさり頷くと、小松の顔色が悪くなった。この手の話は
苦手のようだ。
「もっとも、幽霊って言葉は正しくないかな。一般的にそう呼
ばれているのは、生きていた時の、強い思念の残留物だから」
「う、恨みとか怒りとか、思いを残して死んだってことです
か?」
「それもあるけど、逆に幸せとか感謝とかが残ることだってあ
るよ。人間も含めて生物は、絶えず色々な感情を持ち、周囲に
エネルギーを放射している。オーラとか電磁波とか呼ばれるも
のだ。放たれたそれは、すぐには消えない。時に、本体が滅び
ても長く残ることがある。
それが多分、一般に『幽霊』と呼ばれているものだと思う」
「つまり、ココさんが見ているのはエネルギーだってことです
ね。見れば、相手の未来が判る……?」
「未来も、時には過去も。仕事でなければ、極力見ないように
しているけどね。他人の一生を覗くなんて、下品極まりない
行為だから」
 意思に関わらず、見えてしまうこともある。
 その時は、忘れることにしている。
 勿論、実際に記憶は消せない。大量の『合法的な』記憶の中
に紛れ込ませ、自身に強い暗示をかけて、「忘れた」と思い込
ませるのだ。
 それでも尚、忘れられない映像がある。
 あれは、エネルギーが描く、茫漠とした絵図ではなかった。
 はっきりと像を結び、音や匂いまでも伴っていた。あの光景
は──。
 小松の声に、ふと我に返った。
「トリコさんのデザートがいつ決まるか予言したのは、ココさん
だったんですよね。メニューの内容までは、判らなかったんです
か?」
「……そこまではね。というより、もしそれを占ってしまった
ら、トリコの行動範囲を制限してしまうことになるだろう?
占いが、現実を縛っちゃいけないんだ」
「そうか。そうですね」
 小松は恥じ入ったように、小さな肩をますます狭めた。
「すみません、考え無しなことを言いました。……でも、やっ
ぱり少し気になるなぁ。トリコさんが、これからどんな仕事を
成し遂げるのか。五年後、十年後、どんな美食屋になって、
どんなフルコースを作り上げるのか」
 トリコが足を止めた。
 こちらの話を聞きとがめたのかと思ったが、違った。
 空気に、生臭い獣の臭いと、甘い毒の匂いが入り混じり、澱
んでいる。デビル大蛇を仕留めた地点まで、戻って来たのだ。
 転がった頭部を目にして、小松が「ギャッ!」と飛び退った。
つい先刻、これに食われそうになったのだから、無理もない。
「小松!」
 トリコが叫んだ。
「一切れ持って帰る。味を落とさねェように、下処理してくれ
るか」
「ぼ、僕がですか?デビル大蛇なんて、扱ったこともないです
よ!参ったなあ」
 どこか嬉しそうな「参った」だった。骨の髄まで料理人なの
だ。
 背負っていたディパックを下ろし、愛用の包丁を引き出す
小松から、巨大な肉片を品定めするトリコへと、ココは目を移
した。
 忘れることの出来ない映像が、現実のトリコにかぶる。
 重く灰色に煙る大気の中、巨大な鬼が立ち上がる。
 トリコが身の内に飼う、野生の塊ではない。それはおそらく、
トリコそのものだ。
 返り血に汚れ、変わり果てた横顔は、もうこちらを顧みるこ
とはない。その目はココを映さない。
 鬼が吼える。腹の底まで響く咆哮と、轟く雷鳴。
 世界の終わりの始まり。
 忘れようとして幾度も思い出し、かえって深く刻み込んで
しまった映像だった。
 ココは、きつく目を瞑り、開いた。
 幻は消え、小松と二人、嬉々として作業に勤しむ現実のトリ
コだけが残った。咆哮も雷鳴も聞こえない。
 占いが的中する確率は、100パーセントではない。3パーセ
ントは外れる。
 幻が幻のまま、終わる可能性だってあるのだ。
 だが、もし現実となった時は。
 ココは、自分の右手を見た。
 手首から指先に向かってじわじわと、皮膚が黒褐色に染まっ
てゆく。
 吐息のような呟きが漏れた。

「僕が止めてやるよ──この毒で」

 一滴残らず、全部お前にくれてやろう。
 もしも、それが最後の狩りになったとしても、決して後悔は
しない。


                             了



2009.3.8
原作を読む限り、トリコの暴走はあり得ないことじゃない…
と妄想が暴走するままに書いてみました。暗いですね(笑)
でも、私はハッピーエンドが好きなので、この二人も多分
幸せになるだろうと思われます。死んで花実が咲くものか。