DEEP DEEP・B


 遠ざかる足音を、息を殺して聞いた。
 周囲から、トリコの気配が完全に消えて初めて、自分が両手
を握り締めていたことに気付いた。開いてみると、びっしょりと
汗をかいていた。
 逃げよう。
 漠然と胸にあった考えが、急速に形を取った。
 変わってしまった体を追い回す連中からも、変わってなど
いないと言ってくれた男からも。
 その晩、ココは、ある男に連絡を取った。
 態度を変えなかった「ほんの一部」の人間であり、『庭』と
呼ばれる牢獄で、ココやトリコと同じ時間を過ごした一人だ
った。
「この家を出る。そして身を隠す。手を貸してくれないか、
ゼブラ」
 彼もまた、窮屈なしがらみにうんざりしていたのだろう。
余計なことは聞かず、請け合ってくれた。
 そうして、ココは姿を消した。
 道連れにしたゼブラとも途中で別れ、追っ手をまくように、
西へ東へ移動した。
 グルメフォーチュンに落ち着いたのは、ほんのひと月前だ。
 シティから遠く離れた土地では、自然、IGOの影響力も弱
くなる。四天王の名は知っていても、どこからか流れ着いた
占い師の若者とそれを結び付けて考える者はなく、ココは何年か
ぶりに静かな生活を取り戻した。
 組織の匂いのする連中がうろつくこともなくなり、夜中に悪夢
にうなされ、飛び起きることもなくなった。
 小さな占い屋が軒を連ねる薄汚れた横丁で、日々訪れる客の
相手をし、時間が来れば店を閉めて帰る。
 欠伸が出るほど単調で、穏やかな日々。
 そこに、置いて来た筈の過去が、現れたのだ。
 違う、と、即座にココは打ち消した。
 置いて来たのではない。逃げたのだ。受け止めることも、
拒むことも出来ず、逃げた。
 けれど、逃げ切れないだろうことも、二年前のココは、どこか
で知っていた。


                 ◇◆◇


「やっと、見つけた」
 大きな肩を揺らし、トリコは一つ息を吐いた。
 先刻まで少女が掛けていた丸椅子を引き、窮屈そうに腰を下
ろす。230キロの重みに、安物の椅子が軋んだ。
 少し、髪が伸びたろうか。見たところ、変わったのはそれく
らいだった。
 Tシャツにカーキ色のチノクロス、はき込んだワークブーツ
というラフな格好も、その内側の、今にもパワーではち切れそ
うな肉体も、以前のままだ。
「ずいぶん探したぜ」
 予告もなしに、突然姿を消したのだ。顔を合わせたら、殴ら
れても仕方がないと覚悟していたのだが、拳は飛んでこなかっ
た。
 代わりに、アヒルのように口を尖らせ、トリコは言った。
「いきなりいなくなりやがって。どうして何も言わなかったん
だよ」
 そういう表情をすると、少女が評した『強面』が、急に幼く
なった。
 かつて、修業仲間のサニーは「獣の坊や」とトリコを呼んだ。
 荒々しい野生の獣と、やんちゃな子供が、一つの体に同居し
ている。そんなところも、変わっていない。


                            (続く)



2009.2.4
祝・3巻発売v
それにしても、四天王の年齢設定って、どうなってるんだろ?
一歳でも一ヶ月でもいいから、ココの方がトリコより年上だったり
したら、ちょっと嬉しい。ね、藤音姫?(笑)