DEEP DEEP・A


                 ◇◆◇


 ――お前は何も変わんねェよ。抱いて、そいつを証明して
    やろうか。
 そう言って伸ばされた手から、ココは逃げた。
 二年前の話だ。誰にも行き先を告げず、姿を消した。
 完成を目指していたフルコースは途中で投げ出したまま、
美食屋稼業を続けていく気力もなくなっていた。
 実際、もう何年も、美食屋の仕事など出来ていなかったのだ。
 初めから無気力だったわけではない。
 思惑はともかく、身寄りのなかった子供を拾い育ててくれた
IGOへの恩義も感じていたし、未知の食材を捜し出す行為そ
のものへの情熱もあった。
 IGOの職員は勿論、世間もまた四天王の一人としてココを
賞賛し、ひっきりなしに仕事の依頼が舞い込んだ。
 世界が変わったのは、ココの体が、新たな毒を生み出したと
判った時だ。
 白は黒になり、味方は一瞬にして敵になった。
 四天王として崇められていた時も、見聞きするもの全てが
真実だと思っていたわけではない。
 幸か不幸か、ココにはあらゆるもののオーラが見える。相手
の本心を読み取ることなど容易かった。
 だが、そうして入り混じる光と影を見慣れて来たココにとっ
ても、その変化は激し過ぎた。
 昨日まで親しげに近付いて来ては他愛も無い話をしていた
人々は、遠巻きに立ってココを眺め、代わりに寄って来たのは
IGOの医療班や、得体の知れない自称『科学者』連中だった。
『新種の毒物であるなら、成分を調べさせて欲しい』
『貴方の血液から、新たな血清を精製したい』
 面と向かって申し入れて来るなら、まだ良い。
 仕事に出向く先々で、怪しげな連中に付きまとわれ、家に戻
れば、家具や置物が微妙に動いていることもままあった。
 見張られている。
 慄然とした。
 ほんの一部を除き、世界の全てがココの敵だったのである。
 科学者の中には、ココを危険生物として幽閉してしまえと
主張する者まで現れた。
 もはや、美食屋などやっている場合ではなかった。
 トリコが訪ねて来たのは、そんな時だった。
 袖裏や懐に注射器を忍ばせた男たちに四六時中付け回され、
疲れ果て、己を呪い始めていたココに向かって、トリコは言っ
た。
「そう悲観するもんでもないぜ。逆に言えば、猛獣に襲われに
くくなったってことだろう。美食屋稼業にゃ、もってこいじゃ
ねェか」
 まさかトリコも本気でそんなことを思っていたわけではなか
ろう。彼なりの慰めだったに違いない。
 だが、その頃のココには、それを受けとめる余裕がなかった。
「そうかもしれないな」
 曖昧な笑みで流そうとしたココの肘を、不意にトリコが捕ら
えた。
 思わず眉を顰めるほど、強い力だった。
「何を……!」
 吐息を聞き取れるほど近くに、彼の顔があった。
 軽口を叩いた時とは違う、真剣な表情だった。
「お前は何も変わんねェよ。抱いて、そいつを証明してやろう
か」
 咄嗟に、彼の手を振りほどいていた。
「帰ってくれ」
「ココ」
 まだ何か言い掛けるトリコを遮り、ドアを開け、もう一度言
った。
「頼む。帰ってくれ」
 顔は見なかった。
 見れば、こちらの顔も見せることになる。
 数秒、トリコは沈黙し、そして出て行った。


                            (続く)



2009.1.30
今回のBGMは『あの日にかえりたい』でした(笑)
あ、ユーミンじゃなくて稲垣潤一&露崎春女の方です。