『たまゆら』(抜粋)

 
 午前11時。ちょうど乗降は谷間の時刻らしく、駅の周辺は人
影まばらだった。
 バスプールの傍に、真新しい看板を見つけ、近付く。観光客
向けに設置されたものらしく、簡単な史跡案内が書かれていた。
「武田信玄……そうか、甲府って信玄ゆかりの土地なんだ」
 ロータリーの右側には、厳めしい顔つきをした信玄公の銅像が
鎮座ましましている。
 物珍しく眺めていると、すかさず影の中から不壊が顔を出した。
「兄ちゃんよぅ、まさか今度は信玄って誰だとか言い出すんじゃ
ねェだろうな」
 カチンと来た。
「馬鹿にすんなよな。俺だって信玄くらい知ってるっつの」
「へぇ、そうかい。山梨って東北か、とか言っていたのは、
どこの誰だっけな?」
「山形と山梨がごっちゃになっただけだろ!ちょっとした間違
いじゃねェか」
「……山形県民と山梨県民に謝れよ。それより」
 不壊は腰まで姿を現し、三志郎と向き合うようにして立った。
 じっと三志郎の顔を見詰める。
「顔色が悪いぜ」
「そうか?」
「寝てないんじゃねェのか?この前、夢でうなされてから、何
だかおかしいぞ」
「そんなことねェよ。ちゃんと寝てるって。ほら、今朝も爆睡して、
不壊に起こされなかったら、危なく電車に乗り遅れるとこだった
ろ?」
 冗談めかして言ってみたが、不壊は笑わなかった。
「兄ちゃん、何か隠し事してねェか」
 ぎくりとした。
「……別に」
「あれから、また同じような夢を見なかったか?」
「見てねェよ。何でそんなにあれに拘るんだ?そりゃあ怖かっ
たけどさ、ただの夢だろ?」
「兄ちゃん」
 声が尖った。不壊は厳しい目で三志郎を見、言った。
「夢を、寝ている間の幻覚だ、くらいに思っていたら、大間違
いだぜ」
「違うのか?」
「勿論、何の害もない夢もある。だが、中には兄ちゃんたちの
住むこっちの世界と、俺たちが住むあっちの世界を繋ぐ扉の役
割を果たしているものもあるんだ。ついでに言っておくなら、
扉の向こうは、いつもまともな妖ばかりとは限らない」
「まともじゃない、って……どんなんだ?」
 声にぞっとするものを感じて問い返すと、『あっちの世界』の
住人である男は、「さあな」と肩を竦めた。
「何だよ、それ!お前、最後まで教えねェの、悪い癖だぞ!」
「俺だって何もかも知ってるわけじゃねェんだよ。とりあえず、
気を付けとけ。俺は少し留守にするから」
「はあ?」
 突然、何を言い出すのかと、三志郎は目を剥いた。
 個魔がぷれい屋を置いて、勝手にどこかへ行くなど、聞いた
こともない。
「留守にするって、だって不壊、げぇむはどうするんだよ」
「心配しなくても、二時間もあれば戻る。どうせ一日早く着い
たんだ。時間はあるだろ。逆甲府への入口を探すまでは兄ちゃ
んの仕事だしな」
「おい待て!こら、不壊!」
「あ、そうだ」
 影に沈みかけて、そこで不壊は何事か思い出したらしく、戻
って来た。
「忘れ物か……!」
 尋ねかけ、三志郎は目を瞠った。
 不壊が近づいて来たかと思うと、抱き締められていた。絶句
した唇に、軽いキスが落ちる。
「お守りだ」
「……お守り?」
「気休めだけどな」
 何が何やら判らず混乱する三志郎を残し、今度こそ、不壊は
ひらひらと手を振り、消えた。
「……何なんだ、一体」
 ロータリーの隅に置かれたベンチに、三志郎はどさりと座り
込んだ。驚きに一瞬停まった心臓が、凄まじい勢いで拍動を始
める。
 不壊からキスをされたのは初めてだった。
こちらから仕掛けたことは何度もあったし、その度に不壊は
特に嫌な顔をすることもなく受けとめていたが、不壊自身が何
をどう思っているのか、聞いたことはなかった。
 だから、三志郎にとって、このキスの意味は大きい。不壊も、
満更でもないのだと取って、いいのだろうか。
 それにしても──。
「もうちょっと、ここにいてくれてもいいんじゃねェ?」
 これでは、行きがけの駄賃ならぬ、出がけの釣銭だ。


2007.5.23 UP
おどろおどろしい(?)話なので、軽めのところを抜粋してみました。
三志郎は攻ですが天然な人ゆえ、たまに↑な風に不壊に振り回されて
くれると良いと思います。普段は不壊が振り回されっぱなしだから(笑)
でもって、このキスの本当の理由は、本編にて。伏線です。