大晦日

 年の瀬は、皆押しなべて慌しい。
 バリバリ働き盛りのサラリーマンだろうが、年金生活のお年寄り
だろうが、クリスマスに彼氏と甘い夜を過ごしたOLだろうが、家事
と育児に追われる主婦だろうが、来るべき春のために猛勉強中の
受験生だろうが──誰にでも平等に年末は訪れる。
 唯一例外かと思われる子供達ですら、クリスマスに買ってもらっ
たばかりのゲーム機を弄くり倒し、お年玉でどのソフトを買おうか
と、情報交換に余念が無い。
 そうして一年間の締め括りとばかり、誰もが走り回る師走の末。
 世間の経済活動から取り残されたような島田道場でも、やはりこ
こ数日、慌しい日々が続いていた。
「酒は昨日店から運んで来たし、屠蘇散も買ったし、松飾りと注連
縄もある……道場の掃除も終わったし、あとは……」
 大晦日の午後三時。
 島田家母屋のダイニングキッチンでは、勇ましく髪を団子に纏め
た七郎次が、やるべき用事を指折り数えていた。
 普段着のクリーム色のセーターとジーンズの上から、厚地の青い
エプロンを付けている。
「町内会の回覧版も回した。NHKの受信料も振り込んだ。大掃除
は……」
 廊下に続くガラス障子がカラリと開き、黒のタートルとチノクロス
姿の久蔵が顔を出した。付けているエプロンは、七郎次とは色違
いの赤だ。
「客間と廊下の掃除は終わった」
「ああ、お疲れ様です」
 残るは、風呂場と玄関だけだ。
「一息つきましょうか。頂き物の饅頭もありますし」
 ダイニングテーブルに久蔵と向き合い、七郎次は緑茶を淹れた。
「どうぞ」
湯気の立つ湯飲みを久蔵に勧める。
久蔵は軽く頭を下げ、「かたじけない」と受け取った。
 こんな当たり前のやり取りすら、彼がこの家にやって来て間もな
い頃は、ぎこちなかった。
 半年を過ごし、少しずつ二人の間の距離が縮まって、今の関係が
ある。
「今年は、人手があるから、早く終わりそうですね」
 半ば独り言のように言うと、久蔵が尋ねた。
「いつもは一人で、全部やっていたのか?」
「ええ、まあ……勘兵衛様はあまりこういう雑事は得手ではないので」
 典型的B型人間の勘兵衛は、自分が興味のある分野には心血を注
ぐが、そうでない事柄──特に日常生活──に関しては、からっきし
だ。
「とりあえず、人目に触れるところを優先してやっていましたから、
いきおい自宅が後回しになりまして」
 店や道場ばかり掃除して、結局、母屋は掃除しないまま年越しす
ることが多かった。
「それじゃあ、来年は早めに店の掃除を済ませるか」
 ぼそりと久蔵が呟き、七郎次は顔を上げた。
「何だ」
「いえ……」
『来年は』という言葉を久蔵は口にした。たったそれだけのことが、
嬉しい。
 微笑む七郎次に、久蔵は怪訝な表情を浮かべたが、深く追究はせ
ず、話題を変えた。
「そういえば、朝から島田の姿が見えないが、どこかに行ったのか」
「ええ。毎年大晦日は、勘兵衛様には特別な仕事がありまして……」
 七郎次の言葉が終わらないうちに、玄関の引き戸が開く音がした。
「た……ただいま、帰りました」
 一週間前に引っ越して来たばかりの内弟子だった。
まだ声に戸惑いがあるのは、自分の家族のように挨拶して良いも
のか、迷っているせいだろう。
久蔵と同じで、ここでの生活に慣れれば、いずれ落ち着く筈だ。
 遠慮がちにダイニングに入って来た勝四郎は、茶を啜る久蔵の後
ろ姿を見るなり、うっと小さく呻き、足を止めた。顔が茹で蛸のよ
うに赤くなる。
 こちらは、挨拶ほど簡単にはいかないようだ。
 七郎次は苦笑した。
「どうでした?ありましたか?」
「最後の一枚でしたが、どうにか買えました」
 勝四郎が差し出す白い包みを受け取る。彼には、道場の神棚に飾
る、歳神様の飾り紙を買って来るよう頼んであった。
 包みを開くと、確かに一枚、紙が入っていた──が。七郎次は、
眉を寄せた。
「勝四郎……これは歳神様じゃなく、お釜様だ……」
「は?」
 黒々と巨大なお釜──三宝荒神。
図柄が示す通り、台所の炊飯器や煮炊きをするコンロの上に祀る
神様である。これでは、道場には飾れない。
 がっくりと勝四郎が項垂れた。
「私は……私はお使いすら満足に出来ないのか……」
 慌てて宥めにかかる七郎次の手から、久蔵が、
「貸せ」
と一言、飾り紙を取り上げた。どこから取り出したものか、左手に、
サインペンを握っている。
「どうなさるおつもりで……久蔵殿!」
 七郎次の制止も聞かず、久蔵は『三宝荒神』を二重線で消し、
『大歳神』と書き直した。
「これでいい」
「よくありませんよ!幼稚園児のお絵描きじゃあるまいし!ちょっ
と、どこ行くんですか?」
「道場に貼って来る」
「やめて下さいってば!」
「すみません、私が不甲斐ないばっかりに……」
 言い争う久蔵と七郎次の足元で、勝四郎がわあっと泣き崩れた。


                × × ×


 どうにか大掃除も終わり、修正入り飾り紙を貼った神棚にも──
結局、久蔵が押し切った──灯明が点った午後七時。
漸く勘兵衛が帰宅した。手に大きな紙袋を二つ、ぶら下げている。
「これはまた、大漁で。何軒回られたんです?」
 渋藍の和服姿の勘兵衛は、出迎えた七郎次に荷物を渡し、短く応
えた。
「四軒だ」
 紙袋を手に、ほくほくしながら台所に戻ると、酒の仕度をしていた
久蔵と勝四郎が振り返った。
「七郎次殿、言われたとおり、飲み物の用意だけはしておきました
が……食物は無くて良いのですか?」
 確かに、テーブルの上には何もない。冷蔵庫の中身も、空っぽだ。
 不安げな弟子に、七郎次は、今置いたばかりの紙袋を示した。
「そのために、勘兵衛様が出掛けていたんですよ。この袋、開けて
みなさい」
 促されるまま一つ目の紙袋を開けた勝四郎が、目を丸くする。
入っていたのは、美しい朱塗りの重箱に入ったおせち料理と、オ
ードブルだった。
「じゃ、じゃあ、こっちは……」
 もう一つの紙袋からは、大量のみかんと、ちらし寿司が出て来た。
一気に豪勢になった食卓に、勝四郎の顔が輝く。
「勘兵衛様が年末の挨拶に回ると、何故か皆さん、こぞって食材を
下さるんですよ。お陰でここ数年、年越しに食物で不自由したこと
はありません」
 久蔵が頷いた。
「なるほど。これが先刻言っていた、島田の『特別な仕事』という
わけか」
「そういうことです」
 貧乏な島田道場のことだ、正月用の餅も買えないのだろう、と周
囲から不憫がられているのかもしれないが、この際、思惑などは二
の次だ。七郎次にとっては、人並みに年を越せるということが、何
より重要なのである。
夕餉の膳が大方整ったところで、客が二人、やって来た。
「今晩はー。お言葉に甘えて、来ちゃいました」
「お相伴に預かりに来たぞ。差し入れ持って」
平八と、五郎兵衛だった。二人とも今年は東京に残ると聞いてい
たので、暇なら来ないかと誘ってあったのだ。
 男六人が揃うと、一回り大きな炬燵も流石に窮屈になった。
『おい!何で俺が除け者にされるんだよ!』
 平八の後ろに追いやられたキクチヨが叫ぶ。
「仕方ないでしょう。もう炬燵がいっぱいなんですから。乾杯が終
わったら、すぐ仲間に入れてあげますよ」
 勘兵衛が盃を掲げ、場の全員が──不平を並べていたキクチヨ
までが──黙った。
「去年は、七郎次と儂の二人だけだった。今年は、六人……いや、
七人だ」
 頭数に入れてもらったキクチヨが、嬉しさのあまりモニタの中で
白煙を噴き上げた。
「色々あったが、こうして七人で祝杯をあげられるのだ。良い一年
だった。来年も……」
「来年も」
「来年も」
 五郎兵衛が、平八が盃を掲げた。
『来年も』
「来年も」
「来年も」
 キクチヨが、七郎次が、久蔵が続き、
「……来年も」
勝四郎も、ジュースの入ったグラスを掲げた。
 勘兵衛が頷く。
「来年もまた、七人で無事に年を越せたことを、そして新しい年を
祝おう。……乾杯」
「乾杯!」

 過ぎ行く年に、やって来る新しい年に、乾杯。

 来年もまた、共にあれますように。


                              了
           


2007.1.5
遅ればせながら…明けましておめでとうございます。
皆様にとって、良い年になりますように。
あ、うちのキュウは両利きですが、文字は左手で書きます。