〜カンナ町二丁目島田道場・2.5〜



        
       八、 コマチの探し人(前編)


 午後7時10分。
 不肖の息子をどうかよろしくと、何度も何度も頭を下げ、
岡本夫妻は帰って行った。
 大急ぎで夕食の仕度を済ませ、七郎次が店に戻ってみると、
フロアは奇妙なほど静まり返っていた。
「ただいま……って……」
 何だ、この静粛な空気は。
「どうしたんです、一体?」
 今しがたやって来たらしい五郎兵衛が、カウンター席から振
り向き、人差し指を口の前に立てた。コマチの方を見ろと目配
せる。
「はあ……」
 促されるままテーブル席に視線を巡らせると、コマチが平八
とキクチヨを前に、ぽつぽつと話をしているところだった。
声が小さいので、皆耳を澄ましていたのだ。
 窓際に立って何故か外を気にしている久蔵までが、全身を耳
にして聞き入っている。
 どうやら、重要な話のようだ。
 少女は言った。
「最近、姉様は好きな人が出来たです」
「ほう。それは良いことですね」
 平八の言葉に半ばむくれて、コマチは聞き返した。
「良いことですか」
「良いんじゃないですか?どんな相手にせよ、人を好きになら
ないよりは、好きになった方が何十倍も良いと思いますよ。
人生が豊かになります」
 もっともらしい平八の台詞に、五郎兵衛が情けなさそうな顔
をした。『超』が付くほど鈍い相手のおかげで、人生豊かになる
どころか、痩せる思いをしているのだから、無理もない。
 コマチは「難しくて、よく判んないけど」と、拗ねたように
言った。
「でも、姉様のは、そんなに良いことじゃないと思うです。
その人を好きになってから、姉様すっかり変わっちゃいました」
「そりゃあ、人を好きになったら……誰でも、ねえ?」
 最後の「ねえ?」は五郎兵衛に向けた呼び掛けだった。単に
一番近くにいたからだったのだろうが、五郎兵衛は端で見ている
七郎次が気の毒になるほど狼狽え、ああ、とか、むう、とか曖昧
に同意した。
「でもでも、姉様は大事なお勤めも、ずっとサボりっぱなしです!
このままじゃ姉様、お婆ちゃまの跡を継げなくなっちゃうです」
「お婆ちゃまってことは……学園理事長の?」
 頷いた。
「うちは母様がいないから、お婆ちゃまの跡を継ぐのは姉様だ
って決まってました。姉様は毎日神様にお祈りをして、いっぱい
お勉強して、十八歳になったらソウホンザンっていうところに
行って、偉いシスターさんになる修行をするって話でした」
「キリスト教の総本山……ですかね」
 平八の問いに、七郎次は「多分」と応えた。
 おそらく、水判家では代々長女が尼僧となり、当主の座を継い
でいるのだろう。
「お婆ちゃまはすごくすごく姉様に期待していて、お家も学校も、
姉様にぜーんぶ譲って、早く引退したいって言っていたんです。
……でも……」
「肝心の跡取娘は色恋に夢中になって、自分の役目を忘れてし
まった……ってわけか。十六、七の女の子に、恋をするなと言う
方が無茶だと思うが」
 五郎兵衛の言葉に、コマチは今にも泣き出しそうに顔を歪めた。
「姉様、最近はお勉強もお祈りも全然身が入ってなくて、お婆
ちゃまの代わりに行く筈だったミサもすっぽかすし……。
で、お婆ちゃまが言ったんです」
──あれでは到底後継ぎには出来ない。仕方がない。キララ
は諦めて、コマチに継がせるか。
「お婆ちゃまはああ言ったけど、姉様は私の憧れです!きっと
姉様なら立派なシスターさんになれるのに」
「そうか、だからコマチさんは、お姉さんのことが心配で……」
「姉様が好きになった相手というのを、この目で確かめに来た
んです!」
 でも、と七郎次は首を傾げた。それでどうして六花館なのだ
ろう。
 同じ疑問を抱いたらしく、平八が尋ねた。
「それで、何故、このお店に?」
「姉様が、ここに何度も来ていたから。前に、好きな人がこの
お店に入って行くのを見たとか言ってました」
 やはり、相手の男はこの店の客、あるいは関係者なのだ。
 だとしても、コマチの姉──キララらしき女子高生が現れた
記憶はない。
「シチさん。客として来ていたとは限らんぞ」
 五郎兵衛の言葉を、コマチが裏付けた。
「姉様はお店には入ってません。外に立って、お店に入る人たち
をずーっと見てたんです」
「毎日?」
「毎日です」
「何時間も?」
「何時間もです」
「そりゃ気合の入ったことで……」
 入り過ぎて、ストーカー一歩手前だ。
 
 
 
                     「八、 コマチの探し人(後編)」に続く


2007.2.28
間が随分空いてしまいました(汗)久々に連載再開です。
再開した途端に、キララ=ストーカーですみません(汗)