〜カンナ町二丁目島田道場・2.5〜



        
       四、 七郎次の憂鬱

今日の運勢は何だったろうか。
薬缶を火にかけながら、七郎次はぐるりと目を回し、台所の天井
を見上げた。古い天井板に、水の染みた痕がある。
雨漏りだ。バケツを持って来なければ。
六花館に現れたコマチ──乾かすために家に持ち帰った制服には
『小町』と刺繍が入っていた──といい、今しがた突然島田家にや
って来た二人といい、今日は一筋縄ではいかない客に見舞われる日
のようだ。
二人は、岡本勝、利子と名乗った。下の名前を繋ぎ合わせると、
たいそう華々しい彼らは夫婦で、道場に通っている岡本勝四郎の両
親だった。
政治家や官僚を続々と輩出している名家の家長とその連れ合いが、
こんな場末の貧乏道場にわざわざ足を運ぶとなれば、理由は一つし
かない。
──息子を辞めさせます。
今頃、奥の客間で勘兵衛にそう切り出しているに違いない。
肩を落とし、七郎次は玉露の茶筒を取った。
最初こそ押し掛け弟子だったとは言え、勝四郎も今は大切な島田
道場の門下生だ。熱くなり過ぎて、少々空回りするきらいはあるが、
練習は熱心だし、素直なところも良い。
何より、この手の商売において口コミというのは馬鹿にならない。
一人の門下生が二人、二人が四人、四人が八人と、次々に人を呼ぶ
ことを考えると、勝四郎に今辞められるのは、正直、痛かった。
すぽん!
「……ありゃ」
滅多に使わないものだから、茶筒の蓋が渋くなっていたのだ。
盛大に飛び散った茶葉を頭から被り、七郎次の肩がますます下が
る。
どうやら今日の運気は下の下らしい。
かろうじて底の方に残っていた茶葉で、三人分の茶を淹れ、客間
に運んだ。
「失礼します」
障子を開けると、岡本夫妻と勘兵衛が、難しい顔で向かい合って
いた。皆、一言も口をきかない。重苦しい空気の中、茶を出して下
がろうとすると、
「七郎次。お前も同席しろ」
勘兵衛に呼び止められた。
「は……」
「こちらは、師範代をしております七郎次と申します」
勘兵衛の紹介に、夫婦は揃って頭を下げた。
「息子が大変お世話になっております」
顔を上げた勝は、いかにも名家の当主らしく、押し出しの強さと
品の良さを併せ持つ男だった。楚々とした小柄な妻とは、良い対照
を成している。
「お二人は、勝四郎をここに住まわせて、内弟子にすることは出来
 ないかと、ご相談に来られたのだ」
「内弟子に、ですか?」
予想とは正反対の展開だった。
勝が頷き、膝を進める。
「勝四郎は、毎朝毎晩の素振りも欠かしたことがありません。父親
 の私が言うのも何ですが、とても練習熱心で真面目な子です」
「勿論、毎月のお月謝とは別に、下宿代もきちんとお支払い致しま
 す。入用なものがあれば、何なりとおっしゃってください」
「どうか、こちらに置いてやっては頂けないでしょうか」
年がら年中金欠で困っている身には、願っても無い申し出ではある
──が。
交互に頭を下げる夫婦を前に、七郎次は釈然としないものを感じ
ていた。
どうもおかしい。
岡本家と昵懇にしている道場など、他にいくらでもあるだろうし、
剣術の腕を磨くのに、今時住み込みでというのも流行らない。
いかに教育熱心な親とはいえ、いや、熱心であればこそ、息子が
師事する先はもっと慎重に吟味するものではなかろうか。
「勘兵衛様……」
困惑して勘兵衛を見ると、彼もまた七郎次と同じことを考えていた
らしい。考え事をする時の癖で顎髭を撫でていたが、やがて手を
下ろすと、言った。
「失礼を承知で申し上げるが、何か、ご子息を儂に預けたい──
 あるいは、外に出したい理由がおありか?」
夫婦が同時に息を呑んだ。気まずい沈黙が流れる。
たっぷり一分ほども黙った後、ぼんの窪に手をやりながら、勝が
不承不承話し始めた。
「お恥ずかしい話ですが、実は愚息の奇行に手を焼いておりまして
 ……」
「奇行、ですか……」
鸚鵡返す七郎次に、利子が小柄な体をますます縮めた。
「夜毎、素振りをしながら、わけのわからないことを叫ぶのです。
 キララどのとかキュウゾウどのとか……」
「……!」
夕方の久蔵に引き続き、七郎次もまた、斜塔になった。
「私や主人が止めるのですが、一向に聞き入れようとしません。
 早朝や夕方ならまだしも、私たちが寝静まった真夜中に起き出して、
 庭で叫び出すこともしばしばで……最近では、近所の風当たりも
 きつくなって参りました」
状況が飲み込めて来た。
要するに、恋に狂った息子が夜な夜な大騒ぎして、ご近所に迷惑
を掛けまくっているので、この際、弟子入りと称して、体よく家か
ら出してしまおうというわけだ。
確かに目の付け所は間違っていない。
ここなら、道場だけに夜中に素振りをしようが叫び声を上げよう
が、大した問題にはならない(母屋に住む人間は寝不足になるかも
しれないが)し、勝四郎が自ら選んだ剣術道場に下宿するのだと言
えば、世間体もそう悪くない。
だが、勝も利子も、肝心なことを見落としている。
それは──。
「よく判りました。お預かりしましょう」
勘兵衛が口にした言葉に、七郎次は耳を疑った。
「ちょっ……勘兵衛様!」
「ありがとうございます!」
「よろしくお願い致します!」
七郎次が押し留める間もあらばこそ、既に夫婦は座布団から降り、
畳に頭を擦り付けんばかりにして礼を述べている。
「不服か?七郎次」
「……いえ……」
流し目の勘兵衛に尋ねられ、引き下がったが、内心は不服どころ
の騒ぎではない。
いっそこの場で岡本夫妻に教えてやりたいくらいだ。
勝四郎が呼ぶところの『キュウゾウ』というのは、何を隠そうこの
家に住んでいる人間で、勝四郎は想い人と一つ屋根の下で暮らす
ことになり、蛇足ながら『キュウゾウ』は、ここにいる島田勘兵衛
と浅からぬ関係を持っていて、更に──これが多分一番問題なのだ
が──『キュウゾウ』は男なのだと聞いたなら、表街道をまっしぐら
に進んで来たような夫婦はどんな反応を見せるのだろうか。
勝四郎の葛藤と、この家で繰り広げられるであろう騒動が目に浮かぶ
ようで、七郎次はまたもや天井を見上げた。
客間の天井板にも、不穏な染みが出来始めている。
こうなったら、岡本家から渡される最初の下宿代で、天井板の張
替えをさせてもらおう。
来るもの拒まず去るもの追わず。でんと構えて自分からは滅多に
動こうとしない亭主に代わって調整役に回るのは、いつも女房である
七郎次の役目なのだった。


                     「五、 勝四郎、推理する」に続く


2006.11.9
シチも肝心なことを見落としています。
それは……勝四郎の目が、いつ自分に向くかもしれないということです(笑)
頑張れ古女房。「カンベエ様×2」になる日も近い(かもしれない)。