〜カンナ町二丁目島田道場・2.5〜



        一、 キララとコマチ(後編)

「……で、誰を待っているのかは、判らないのか」
カウンター席に掛け、経緯を七郎次から聞き終えた久蔵は、
そう尋ねた。少女は、渡されたシャツに着替えようと悪戦苦闘
している。
「ええ。その人物がどんな風体をしているのかも聞いてみた
 んですけどね。判らないの一点張りで」
名前も外見も判らず、どうやって探すつもりなのか尋ねると
『会えばきっと判るから、大丈夫』という答が返って来た。
「家に電話して、家族を呼んだらどうだ」
確かにそれが一番手っ取り早い方法ではある。あと一時間
もすればバータイムになるし、そんな場所に子供を置いてお
くのは頂けない──が、しかし。
「それが、賢いお子で、自分の名前を教えたがらないんです
 よ。名札も見えないように隠しちまってるし」
傘と制服に入った校章──太陽に稲穂──から、私立名門
女子校、聖ミクマリ学園の幼稚舎に通っているらしいことは
判ったが、そこまでだった。
お手上げ、と両手を上げてみせた、その時、
「やあ、こう毎日雨ばっかりだと、仕事もはかどりませんね」
呑気な声がして、平八が姿を見せた。
まだ仕事中だろうに、作業着ではなく、はきこんだジーンズ
に、髪と同じオレンジ赤のナイロンパーカーという出で立ち
だった。肩からカメラマンよろしく大きなジェラルミンのケース
を下げている。
「ヘイさん、仕事は?」
「お客も来ないし、仕掛かりの修理も早めに終わったし、で、
 上がらせてもらっちゃいました。おや?」
コマチに目を留め、にこりと笑う。
「可愛らしいお客様ですね。誰かのお子さんですか?」
「いや、それが……」
結局、もう一度七郎次は最初から説明する羽目になった。
出来ればこの後、知った顔は現れないで欲しい。
「要するに、まずはあの子の名前が判れば良いんでしょう?」
ひととおり事情を知った平八は、事もなげに言った。
「そうですけど……そんな簡単に行きますかね」
「行きますよ。まあ、見ててください」
少女に近付き、傍らに膝をつく。
漸く着替えを終え、七郎次が出してやったチーズケーキに
かぶりついていた少女は、きょとんと首を傾げた。
「お嬢ちゃん、名前は?」
「知らない人に名前を聞かれても、教えちゃ駄目、って、姉
 様に言われてるです」
「なるほど……じゃあ、僕らから先に名乗れば、もう知らな
 い人じゃありませんね?」
そう来たか。七郎次は、こっそりと手を打った。
「え?え……っと……」
こんな屁理屈じみた切り返しなど、考えてもみなかったの
だろう。口篭もる少女に、平八はさっさと告げた。
「僕は、林田平八。あちらにいるのが、七郎次殿と久蔵殿で
 す。さあ、お名前は?」
「……みくまりこまちですぅ……」
消え入りそうな声で名前を口にして、少女は項垂れた。
七郎次は驚いた。
「ミクマリって……お嬢ちゃん、ミクマリ学園の理事長の血
縁かい?」
「理事長先生は、私と姉様のお婆ちゃまです」
久蔵がカウンターの内側に手を伸ばし、電話の子機を取った。
「決まりだな。学校に直接電話をかければ、その理事長とや
 らが迎えに来るだろう」
「迎え?駄目!」
久蔵の言葉を聞きつけ、コマチが叫んだ。
「お婆ちゃまには、私がここにいることを言わないで!」
子供ながら、真剣な顔をしていた。何か事情があるらしい。
「でも……もうじき暗くなるし、家の人が心配するでしょ
 う?」
「うちは大丈夫。父様も母様もいないから!だから、お願い、
 電話しないで!」
「はあ……」
両親ともいない、とは、また複雑な家庭のようだ。
どうしたものか、考え込む七郎次に、平八が助け舟を出した。
「まあ、いいじゃないですか。店が忙しくなりそうなら、私
 がみていますよ。待ち人が来れば、それで済む話ですし、
 もし来なければ、家まで送って行きましょう」
「いいんですか、ヘイさん」
「どうせ今日は何の予定も入ってませんから。構いません」
久蔵を見ると、彼は軽く肩を竦めた。異論はない、という
ことだろう。
「遊んでくれるですか?」
「ええ。何をして遊びましょうかね?」
嬉しそうに、コマチが平八に飛びつく。
長く、ややこしい夜が始まった。


                     「二、誘拐か悪戯か」に続く


2006.10.18
キュウちゃんは斜塔から脱しました。
六花館のベイクドチーズケーキは自家製らしいです。
結構美味いです(焼いているのはシチ。キュウは味見専門。
でも何を食べても反応が変わらないので当てにならない)