〜カンナ町二丁目島田道場シリーズ〜



        九、 夜──それぞれ


「また、こちらから電話する」。
そう受話器に吹き込んで、五郎兵衛は電話を切った。
時刻は真夜中の1時半。
場所は神楽坂にある五郎兵衛の部屋。
電話の相手は平八。
三度かけて、三度とも留守番電話だった。まだ、帰っていないの
だろう。
六花館を飛び出して行った時の様子からすると、よほど興味深い
呼び出しだったらしい。仕事が趣味のような相手だ。
今夜は帰らないかもしれない。
どさりとソファに腰を下ろす。
深々と、溜息が漏れた。
七郎次の言葉に乗せられたわけではないが、どうやら本気で惚れた
らしいと腹を括った矢先に、このオチだ。
『また、電話しますから』。
そう口にしたことすら、平八は、もう忘れているだろう。五郎兵衛
が残したメッセージを聞いて、何のことやらと首を傾げているかも
しれない。
その仕草まで容易に想像がついてしまうあたり、自分も重症だ。
口を突いて、以前どこかで聞きかじった都々逸が出た。
「これほど惚れたる素振りをするに あんな悟りの悪い人……って
ね。あーあ……」
ソファに転がる。
「……ご冗談を」
目を閉じて呟くと、赤毛の青年が、にぱっと笑った。

            × × ×

勝四郎は、何度目かの寝返りを打った。
眠れない。
暗闇の中に浮かぶ残像は、昨夜までのキララではない。
初めて見た、赤褐色の瞳。
金色の髪。
白い肌と、あの冷たい匂い。
五郎兵衛に教えてもらった、彼の名前は──。
「久蔵殿……」
その名前を口にした途端、カッと全身が熱くなって、勝四郎は跳
ね起きた。
何だ、今の感覚は。
「な、な……私は、何を……!」
壁に立てかけてあった竹刀を引っつかみ、一気に階段を駆け下り
る。
「何なの!勝四郎!」
足音に驚いて目を覚ました母が、階下の寝室から顔を出した。
「起こしてすみません!素振りをするだけです!」
「素振り?こんな夜中に?」
目を丸くする母に「ご心配なく!」と言い残し、勝四郎は庭先に
飛び出した。
「やーっ!」
掛け声もろとも竹刀を振り下ろす。
隣家の窓に、パッと明りが点いた。
「やーっ!やーっ!」
声を上げる度に、向こう三軒両隣、次々に窓の明りが増えて行く。
母が、そして父までが、何事かと玄関から顔を出した。
「キララ殿っ!こんないい加減な男ですみませんーっ!」
当のキララは勝四郎の存在すら知らないのだが、勝四郎は大真面
目である。
「やーっ!やーっ!」
「うるさいぞ!何時だと思ってる!」
どこかの家から怒鳴り声がしたが、それすら勝四郎には届かない。
「キララ殿―!明日こそ、貴女に告白します!待っててくださー
い!」

訳の判らないことを叫びながら竹刀を振り続ける息子を見詰め、
岡本夫妻は心痛の面持ちで呟き合った。
「やはり、あの子はどこかに預けよう……」
「そうしましょう……」

「やーっ!きゅうぞ……いえ、キララ殿っ!お慕いしておりますー
っ!やーっ!」
思春期真っ只中、岡本家四男の素振りは、近所に多大なる迷惑を
かけつつ、まだ続いていた。

            × × ×

島田家の母屋は東西に伸びる平屋で、東側三分の一は後から増築
されたものらしく、変則的な造りをしている。
久蔵の部屋は一番東側に位置する六畳間だった。
「……」
微かな声を聞いて、久蔵は目を覚ました。時計を見れば、寝付い
てからさほど経っていなかった。
元々眠りが浅い上に聴覚が鋭いので、些細な音まで拾っては目覚
めてしまう。厄介な体質だ。
「……っ」
また、先刻の声──と、息遣い。
久蔵は、ふ、と息を吐いた。
珍しくもない。一つ置いた隣の寝室から聞こえる、勘兵衛と七郎次
の情事の声だった。
時折、七郎次と久蔵が入れ替わる。
豹悟が「妾紛い」と称したのは、そういう理由だ。
細く尾を引くような声が掠れ、消えた。
後には、裏庭で鳴く虫の音だけが残った。
久蔵は、布団から起き上がった。
裏庭に続くガラス戸を開ける。こまめに油を差しても、立て付け
の悪いサッシはガラガラと音を立てた。
サンダルに足を入れ、庭に出る。人の気配に驚いたのか、虫たち
は数秒沈黙し、それからまた鳴き競い始めた。
秋の夜空は晴れ渡り、満月を数日過ぎた月がくっきりとその姿を
見せている。
寝間着代わりの浴衣一枚では、もう随分肌寒い。
『何が悲しくて男色家の貧乏道場主などに囲われてるんだ?』
不意に、昼間の旧友の言葉を思い出す。
別に彼が思うほど、悲しくはない。
アーミーのホモ連中は反吐が出るほど嫌いだったが、不思議なこ
とに勘兵衛に対しては一度も嫌悪を感じたことはない。
あまりにストレートな言動に、裏があるのではないかと戸惑った
だけだ。
「久蔵」
背後でガラス戸が開いた。
振り返る。生成無地の浴衣姿の勘兵衛と、その傍に七郎次が寄り
添うように座り、こちらを見ていた。
「眠れないのか」
「……いや、別に」
勘兵衛の問いに、首を振る。
確かに、端から見れば奇妙な同居生活だろう。だが、ここを動く
つもりはない。
勘兵衛との勝負は棚上げのままだし、何より──言えばまた、豹悟
は頭から湯気を立てて怒るだろうが──久蔵は、この生活が嫌い
ではない。
「寝る」
部屋に戻りかける久蔵に、「おやすみなさい」と、七郎次が声を
かけた。
「……おやすみ」
ぽつりと久蔵も返す。
この家に来なければ、きっと一生交わすことのなかった言葉だっ
た。

            × × ×

久蔵の部屋のガラス戸が閉まる音がした。
顎を撫で、勘兵衛が溜息を吐く。
「相変わらず、愛想は無いな」
七郎次は小さく笑った。
「そこが可愛くて、連れて来られたのでしょう?」
勘兵衛との付き合いも十数年になる。男癖の悪さなど、今に始ま
ったことではない。
尤も、家の中まで連れ込んだのは、久蔵が初めてだが。
「よほど惚れ込みましたか」
尋ねると、勘兵衛が苦笑した。
「おぬしには適わんな」
「伊達に長い付き合いではありませんから」
風が出て来て、七郎次はガラス戸を閉めた。
「何故か入門者のいない貧乏道場も、実入りが少ない上におかしな
 噂が立つカフェも、手の早い旦那も、もう苦労のうちに入りません」
「えらい言われようだな」
七郎次は、笑みを消し、首を振った。
耐えられないことがあるとすれば、また、勘兵衛を見失うことだ
けだ。
もう何年も前に味わった、身を切られるような想いが七郎次の中
に甦った。二度は、耐えられない。
勘兵衛は沈黙していたが、七郎次が何を言いたいかは察していた
のだろう。やがて立ち上がり、布団に戻りかけながら、言った。
「道場も店も、儂一人では立ち行かん。おぬしを手放すつもりはない」
「……左様で」
勘兵衛が床につくのを見遣り、七郎次はガラス越しの庭に目を移した。
荒れた裏庭に咲き残った彼岸花が二つ、秋の夜風に揺れていた。
 


                                了


2006.9.29
ひとまず、島田道場・1はここまでで一段落です。長々と失礼致しました!
しかし、あからさまに2に続いています……(笑)
近々、2を始めると思いますので、よろしくお願いします!
(も、もし、こんなシロモノにお付き合い頂けるならば……!)