〜カンナ町二丁目島田道場シリーズ〜



        七、 夜・六花館 (前)


「……ダビ男くんの場合は、通常の機体よりも重量がありますから、
 こっちはお勧め出来ませんねぇ。それより、先月出たモデルの方が
 ……」
カウンターでパンフレットを前に話し込む平八と五郎兵衛を見遣り、
七郎次は密かに溜息を吐いた。
五郎兵衛がどこまで駒を進めようとしていたかは知らないが、今夜
も進展はありそうにない。平八の頭の中は、既にチューンナップ後
のハーレーでいっぱいだろう。
十以上も年の離れた相手に振り回され、一人の部屋で肩を落とす
五郎兵衛が目に浮かぶようだ。
「ご馳走様」
テーブルの二人連れが立ち上がる。
「ありがとうございました」と笑みで見送り、七郎次は壁の時計を
見上げた。11時を回っている。閉店まで、あと30分弱。
既に入口のドアには営業終了のプレートを掛けてある。フロアに
残っているのは、スタッフである久蔵と七郎次自身を除けば、五郎
兵衛と平八だけ。そしてこの二人は、もはや客ではない。
「やれやれ……」
金曜の夜だけあって、なかなか盛況だった。心地良い疲れが襲っ
て来る。
パン、と両手を打ち鳴らし、七郎次は言った。
「よっしゃ、営業終了!久蔵殿、レジ締めちまって下さい」
平八が、ニッと笑った。
「お疲れ様でした。片付け、手伝いましょうか?」
「お心遣い、痛みいります。じゃあ、お言葉に甘えて床のモップ掛
 けでも……」
言いかけた時だった。
今しがた、客が出て行ったばかりのドアが開き、騒がしい笑い声
と共に、サラリーマンの一団が入って来た。20代から40代まで、
男ばかり六人。飲み会の帰りらしく、酷く酔っていて、皆よれ切った
スーツ姿だった。
「あれぇ、もう終わり?」
先頭の30そこそこの男が、声を上げる。
「あいすみませんが……」
一揖し、七郎次は応えた。
「ラストオーダーの時刻を過ぎておりますので。申し訳ございませ
 ん」
仕方ねえな、別の店知ってるか、と口々に言い合うのが聞こえた。
出て行こうとするその集団の中から、一人がのっそりと歩み出た。
六人の中で一番年嵩の男だった。薄いグレーのスーツをかろうじ
て着てはいるものの、シャツの前ははだけ、ネクタイは襟ではなく
額に巻きついている。脂の浮いた顔。赤く濁った目。離れていても、
ぷんと酒と汗が臭った。
入口近く、レジの前に立っていた久蔵が、不快そうに眉を顰める。
男は、じろりと七郎次を睨め付け、言った。
「ここは酒飲ませる店だろう?客が来てんのに、閉店って何だよ」
前の店で歌でもがなり立てて来たのか、ひび割れた、耳に障る声
だった。七郎次の応えを待たず、「いいから、戻って来い」と背後の
同僚たちに顎をしゃくってみせる。
「六人だ。とりあえずビールでいいや。あとつまみを適当に」
フロアに足を踏み入れようとする。その胸元を、久蔵が左手で止
めた。
「何しやがる、この……!」
食って掛かろうとした男の表情が、強張った。
久蔵は、軽く胸元に手を置いただけだ。だが、男は前に進むこと
が出来ない。そういう置き方をしている。
静かだが、有無を言わせぬ口調で、久蔵が言った。
「聞こえなかったのか。今夜は仕舞いだと言った筈だ」
戸口の五人に、緊張が走る。
「まずいっすよ……別の店に行きましょうよ」
一人が、男の上着の裾を引きながら、言った。
素面の時ならば、男も引き下がったのかもしれない。どこにでも
いる中間管理職。争いよりも静かな日常を好む四十代。
だが、過ぎた酒が、男を狂わせた。
「どけ!こっちは客だぞ!」
恐怖を虚勢で跳ね返し、久蔵の手を振り払う。
「酒出せっつってんだろ!バーテンダー風情が立てつくんじゃねェ
 よ!」
カウンターに頬杖を付き、成り行きを見守っていた平八が、七郎次
に目配せをした。
「止めてあげた方が良いのでは?あの調子では、怪我人が出そうだ」
五郎兵衛が「同感だ」と相槌を打つ。七郎次は苦笑した。
2ヶ月ほど前にも、同じように閉店後の店に押し入ろうとした客
が酒を出せと暴れ、久蔵を怒らせて痛い目をみている。そのことを
言っているのだ。
確かに、店から頻繁に怪我人が出るのは避けたいところだ。何よ
り、これでは後片付けもままならない。
七郎次はフロアに下り、睨み合う二人の間に割って入った。
「まあまあ、そうかっかせずに。よろしければ、この近くで遅くま
 で営業している店をご紹介しますが、いかがでしょう?」
男の同僚たちは一様に安堵の表情を見せたが、一人、肝心の男だ
けが納得しなかった。
「誰がかっかしてるってんだ!この野郎!」
あっ、と誰かが声を上げた。
久蔵を突き飛ばし、男が七郎次に掴み掛かる──かに見えたのも
一瞬、久蔵がその手を捻り上げ、床に叩き付けた。
蛙が潰れたような呻き声を立て、男がもがく。
「離せ!畜生!」
「畜生はどっちだ」
男の額からネクタイを毟り取ると、久蔵は掴んだ両手をたちまち
後ろ手に縛り上げた。
罵倒の声には耳も貸さず、立ち上がる。七郎次に尋ねた。
「どうする。警察に引き渡すか?」
「そうですねえ……」
警察と聞いて、善良なサラリーマンたちは一斉に気色ばんだ。
「おい!いくらなんでも、やりすぎだろう!」
「警察を呼ぶなら、こっちにも考えがあるぞ!」
「さっさとこいつを解け!謝れ、コンチクショウ!」
最後は、床からの罵声だった。「うるさい」と、久蔵に顔を踏みつ
けられ、大人しくなる。
「この手合いは、一度警察でみっちりお灸をすえてもらうが良いで
すよ。躾がなっちゃいない。……それとも」
いつの間にか、スツールを降りた平八が、騒ぎの輪を覗き込んで
いた。つうっと口の端が吊り上る。
「私が、ご両親に代わって、躾入れ直してあげましょうか?」
輪の中心に転がった男の顔が真っ青になった。場が水を打ったよ
うに静まり返る。日頃付き合いのある久蔵と五郎兵衛までが、半歩、
平八から遠ざかった。
「ヘイさん、怖がらせてどうするんです?」
笑いながら、七郎次は暫し思案した。
警察に知らせれば、過剰防衛だ何だと騒ぎ立てられて、かえって
ややこしいことになりそうだ。かといって、このまま帰せば、後日
意趣返しに来ないとも限らない。
──さて、どうするか。
「何の騒ぎだ」
深く渋みのある声が、緊張を割いた。

                     「七、 夜・六花館(後)」に続く


2006.9.21
すみません、この章だけ他の倍の長さになってしまったので、前後編に
分けました。