〜カンナ町二丁目島田道場シリーズ〜



        六、 キュウゾウ

秋の日没は早い。
午後4時52分。島田家を出た久蔵は、庭先で一度足を止めた。
紺と橙──夜と昼がせめぎ合う空を振り仰ぐ。
頬に当たる風の冷たさが、季節の移ろいを久蔵に知らせた。
いつの間にか、半年が過ぎようとしている。
僅かに顔を顰め、久蔵は歩き出した。
向かった先は『六花館』だった。
通りに面したガラス扉を開くと、軽やかなドアチャイムと共に、
低くBGMが流れ出した。ピアノアレンジの『Casa dolce casa』。
「お疲れさん」
カウンターの内側から、声が上がった。
癖のない長い金髪と、清潔な美貌。
六花館のマスターは、洗い物の途中だったらしく、久蔵に向かっ
て濡れた手を振ってみせた。
「これ、洗い終わったら一度上がるから、あとよろしくな」
「……判った」
頷いて、久蔵はカウンターの奥、ロッカー室とは名ばかりの狭い
倉庫に入って行った。
羽織っていた黒革のジャケットを脱ぐ。その下は、黒いベストと
パンツ、それに白のウィングカラーだった。
平日の夜、久蔵は六花館のバーテンダーとして働いている。
丈の長い黒のエプロンをウェストに巻き付けていると、七郎次が、
ひょいと顔を出した。
「じゃあ、行って来るから」
疲れた様子も無く、手早く髪を結び直して出て行く。夕食の支度を
するため七郎次は一度家に帰り、これから8時までは久蔵が一人
で店を切り回す。
その後、七郎次が店に戻って来ると二人で店に立ち、11時半には
後片付けをして帰る。
半年間、繰り返して来た生活だった。
身支度を整え、久蔵はカウンターに入った。
バータイムに変わったばかりのフロアには、学生らしい男女の二人
連れが一組、いるきりだった。
6時を過ぎた頃から、店は少しずつ混み出す。その前に、やるべき
ことは山ほどあった。
洗い上がったカップを仕舞い、グラスを取り出して磨く。
酒棚を調べ、残り少ないボトルは在庫を出しておく。
大量の氷。
カクテル用に切ったライム。
バーテンダーが華やかに見えるのは、シェーカーを振る一瞬で、
九割方は地道な作業だ。それらを、淡々と久蔵はこなした。
そもそも、バーテンダーが華やかな仕事だという意識も、久蔵に
は無い。ただ、家賃代わりに店を手伝えと言われたから、やってい
るだけの話だ。
もし店が魚屋だったら魚だの貝だのを捌いていただろうし、花屋
なら花切りバサミ片手に、黙々と花束を作っていたに違いない。
久蔵にとっては、ただ一つを除いて身の回りのこと全てが、どう
でも良い事だった。
ただ一つ。島田勘兵衛と決着をつけること、以外は。

つい半年前まで、久蔵はUSアーミー──米国陸軍の招聘を受け、
剣術の指導教官の職に就いていた。
ただし、在任期間は僅か3ヶ月(正確には2ヶ月と29日)。
その間、下克上の大罪を犯して久蔵に乗ろうとした男の数、実に
88名。内、病院送りになった者、81名。二度と『使い物にならな
い』傷痍軍人として故郷に強制送還された者、7名。
飽きもせず懲りもせず、次から次へと襲い来るうつけ者どもに
うんざりした久蔵は、ある日突然、一枚の書き置きを残して姿を消し
た。
──『日本へ帰る。  久蔵』。
久蔵の体には、半分だけ日本人の血が流れている。
数年ぶりの日本で、更に剣の腕を磨き上げようと考えていた久蔵
だったが、しかし、運命は彼を放っておかなかった。
偶然立ち寄った剣術道場の交流試合で、とんでもない出会いをし
てしまったのである。
島田勘兵衛。
初めて切り結んだ瞬間のことを、久蔵は今でも鮮やかに覚えてい
る。
全身が、総毛だった。久蔵とは全く異質な太刀筋。
互いの首筋にピタリと刃を当て、どちらも動けなくなったところで、
勘兵衛が言った。
『惚れた!』
久蔵は度肝を抜かれ、会場は騒然となった。結局、交流試合どこ
ろの騒ぎではなくなって、勝負は流れたのだが、
『どうせ行くところもないなら、うちに来てはどうだ。いずれ、決着を
 つける機会もあるだろう』。
その勘兵衛の言葉──口車、と言った者がいた──に乗せられ、
久蔵は島田家に身を寄せることになった。
1ヵ月後、『惚れた』が『欲しい』に変わり、更に半月後には、少し
関係が変わった。
肝心の決着は、まだついていない。
勘兵衛は「いずれ」と言った。それがいつか、久蔵にも判らない。
判らなくとも良いと、心のどこかで思っている。

店のドアが開いた。
アイスピックを器用に操り、オンザロック用の氷球を作っていた
久蔵は顔を上げたが、入って来た男の姿を見とめると、「いらっしゃ
いませ」の「い」までを言いかけてやめた。
限りなく黒に近いチャコールグレーのスーツに、濃い紫のネクタイ。
黒髪をオールバックに撫で付けている。開いた額に凄味があった。
昼間は薄い色のサングラスをかけているが、今はそれを、胸ポケット
に収めている。
もう10年以上の付き合いになる旧友──豹悟だった。
久蔵と共にアーミーに所属していたが、久蔵が日本へ帰ると、それを
追うようにして彼も帰国した。
久蔵と向き合う位置、カウンターの真ん中に座り、「ビール」と一言
告げる。
久蔵は微かに溜息を吐き、削りかけの氷球をボゥルに落とした。
冷蔵庫から取り出したピルスナーとスタウトを、同時にタンブラー
に注ぐ。ハーフ&ハーフ。
出て来た酒に手をつけず、豹悟は言った。
「久蔵。まだ考え直す気はないのか」
また、始まった。久蔵は無言で氷を削り続けた。
「いつ来てもいいように、椅子は空けてある。SPの仕事が嫌なら、
 他に回してもいいと上も言っている」
「興味がない」
ぽつりと呟く。
どん!と音がして、タンブラーの縁から泡が零れた。豹悟が、拳を
カウンターに打ち付けたのだ。
初めて、久蔵は豹悟と目を合わせた。
「……壊すなよ」
「真面目に聞け、久蔵。一体いつまで、妾紛いの生活を続けるつも
 りだ?」
帰国後、久蔵を探し当てた豹悟は、その生活ぶりを知ってまず激昂
し、それから、頑なに勘兵衛の元を離れようとしない久蔵に愕然と
した。
今でも、時折こうして店に現れては、自分の元へ来るよう、根気
強く口説き続けている。
「お前、アーミーを辞めたのは、腐れホモどもに付け狙われるのに
 嫌気がさしたからじゃなかったのか?それが、何が悲しくて男色家
 の貧乏道場主になぞ囲われてるんだ!」
豹悟の大声とその内容に、テーブル席のカップルが驚いてこちら
を向いた。
久蔵は暫し、旧友の顔を見詰めていたが、やがて緩く首を振り、言
った。
「俺は、島田を斬る」
だから、あの家から離れない。
一瞬、豹悟のこめかみに青筋が浮いた。何か言いたげに口を開き
かけたが、
「もう知らん!勝手にしろ!」
スツールを蹴倒す勢いで立ち上がり、店を出て行った。
丁度店に入ろうとしていた人物が、戸口で豹悟にぶつかりそうに
なり、慌てて飛びのく。
「何だか随分と、頭に血が昇っていたみたいですねぇ」
のんびりと間延びした声。新たに入って来たのは、平八だった。
仕事用のツナギではなく、私服の白いTシャツと迷彩柄のカーゴパ
ンツ。
カウンターの指定席に座った平八は、たっぷり残ったハーフ&ハ
ーフと久蔵を見比べ、首を傾げた。
「バーテンダーが作った酒を飲まずに帰るとは、失礼な。……もら
 っても、いいですか?」
言いながら、もう手はタンブラーに掛かっている。
頷き返し、久蔵は、豹悟が出て行ったばかりのドアを見遣った。
ドアチャイムの飾りが名残のように、まだゆらゆらと揺れ続けて
いた。

                     「七、 夜・六花館」に続く


2006.9.15
キュウちゃんはハーフです。でも外見は完全に外人です。
シチも国籍不明ですが…そのへんはおいおい出てくると思います。
今の時点で判っていることは、島田氏は金髪細身の美人がお好き
だということです。……千●夫?!(愕然)