〜カンナ町二丁目島田道場シリーズ〜



           三、 ヘイハチ

六花館から徒歩二分。
二丁目と三丁目の境、通り一本隔ててぎりぎり二丁目の側に、平八
の勤める俵屋オート有限会社はある。
別に自動車の販売をやっているわけではなく、四輪と二輪を主と
する修理工場だ。
本来の修理だけでなく、板金塗装から車検整備、果てはレース用
のチューンまで幅広く手がけるので、地味な割にはお得意様が多い。
実は、こっそり平八目当てに仕事を頼みに来ている輩も少なくな
いのだが、本人全く意に介していない。
メカニックの腕を褒められれば、ぴょこんと頭を下げ「恐縮です」
と返し、修理のお礼に食事でも、と誘われれば「お代、経理の方で
頂いてませんでしたか?」と首を傾げる。
はぐらかしているわけではない。本当に、全く、切れッ端ほども
気付いていないのだ。
六花館から戻った平八は、赤毛をバンダナで包み、作業場へと潜
り込んだ。
油だらけの壁と床。ごつい工具類。そして、作業台の上に載せら
れた、黒のポルシェ・ボクスター。
これらの中に立つと、元々小柄な平八は、ますます小さくなって
見えた。
「さて。始めましょうかね」
新しい軍手を嵌め、ボクスターに語りかける。艶のあるボディを
撫でると、人に対するような、温かい気持ちが湧いた。
来る日も来る日も設計図だけを引き続けることに嫌気が差し、四
輪の設計エンジニアからメカニックに転職して、もう六年になる。
かつての同僚が今の自分を見たら、鼻で笑うか、憐れみの視線を
向けて来るだろうが、少なくとも、昔より今の方が幸せだ。自分が
欲しいのは、一千万円を超える年収でもなければ、メディアに名前
を取り上げられる名誉でもない。
「えーと君は……エンジン始動時とアイドリング中の雑音、ですね。
 どれどれ?」
雑音を確かめようと、エンジンを回した時だった。メカニックの
一人が、シャッターゲートの向うから、ひょっこりと顔を出した。
「ヘイハチ。お客さん、来てるぜ」
「お客?」
ボンネットを開けているせいで、音が響いて声が聞き取りづらい。
エンジンを切り、平八は問い返した。
「誰です?」
「えらい日本語の上手な黒人。オメーに用があるってよ」
ピンと来た。
かぶっていたバンダナを脱ぎ、作業台から飛び降りる。
「林田って、外人に知り合いがいるのか?すげェな」
好奇の目を向けて来る同僚に、知らせてくれた礼を言い、平八は
外に走り出た。
砂利敷きの駐車スペースに、レザージャケットを着た長身の男が
一人。180は軽くあるだろう。黒い肌に、銀色の短髪。傍らに、
1200ccのハーレーが停まっている。
平八は、歩調を緩めた。砂利を踏む音に、男が振り返る。
「やっぱり、貴方でしたか」
「平八殿」
生粋の黒人としか見えない男の口から飛び出したのは、滑らかな
日本語だった。
『片山五郎兵衛』と名乗っているが、まず本名とは思えない。
とはいえ、隠しているものを敢えて聞くのも躊躇われて、平八は
「ゴロベエ殿」と呼ぶことにしていた。
「どうしました?またダビ男くんの調子が悪いんですか?」
『ハーレー・ダビッドソン』だから『ダビ男くん』。名付けたのは
平八だ。
五郎兵衛とは、三ヶ月ほど前、六花館で出会った。丁度、昼時で
店が混み合い、カウンターで隣り合わせたのだ。
どうやら以前からの知り合いらしい七郎次が、「そういえば、ゴロ
さん、ハーレーの具合が悪いとか言ってませんでしたか?」と切り
出し、五郎兵衛に平八を紹介した。
ハーレー自体は、あっという間に平八の手で修理されたが、五郎
兵衛との関係は、そのまま続いている。
とは言え、たまに連絡を取り合って六花館で待ち合わせ、世間話
をする──そんなものだが。
五郎兵衛は、「いや、何」と軽く手を振って見せた。
「そろそろタイヤを交換しようと思っていたのでな。何か良いのが
あれば、と相談に来たのだが」
「ああ、それなら……」
いいのがあります、と言いかけ、平八は黙った。確か先月、最後
に六花館で会った時には、上手く言いくるめられて食事を奢られて
しまった。
借りっ放しは性に合わない。
「今夜、カタログを持って六花館に行きますので、店で会いません
か?それまでに、いいのを見繕っておきます」
「承知した」
六時に、と約束して、五郎兵衛はハーレーを操り、工場を後にし
た。
見送る平八の背後から、同僚が三人、近付いて来る。
「平八の友達か?」
「友達……っていうのとは、違いますけど」
何と答えたものだろう。戸惑い、首を傾げる平八に、同僚の一人
──利吉が頭を掻き掻き、言った。
「俺、てっきりアメリカ人だと思ったからさ、英語で話さなきゃと
思って『ヘロー』なんてへどもどしてたら、向うから日本語で話し
掛けられちまって……」
他の二人が笑い、純朴な利吉はますます赤くなった。
「ヘイさんの同僚は間抜けた奴だ、なんて言われたら、ごめんな
 ……」
平八は首を振った。
「彼は、そういうことを言う人じゃありませんよ。いい人ですから。
 だから、大丈夫」
それを聞いた利吉が、漸く安堵したように表情を和らげた。
「そうか。ヘイさんはいい人だから、友達も皆、いい人なんだな」
「いい人……」
仕掛かりのポルシェの元に戻りながら、平八は、利吉の言葉を繰
り返した。
苦い言葉だ。
「いい人、じゃあないんですけどね……本当は」
鏡面のようなポルシェのボディに、どこか虚ろな、自分の顔が映
っているのが見えた。

                     「四、 ゴロベエ」に続く


2006.9.6
リキチをメカニック仲間にしたら、意外にはまり役でした。
あ、ヘイちゃんが以前勤めていた会社はきっとト●タに違いない…。