〜カンナ町二丁目島田道場シリーズ〜



           二、 シチロージ

道場兼住居から、歩いて三分ほどのところにあるカフェ
『六花館』。
洒落たパリ風の店や、シアトルスタイルのコーヒースタンドが増
えている中、カフェというよりむしろ喫茶店と呼ぶのが相応しそう
な、レトロな外観の店だ。
赤レンガの壁と、木枠にガラスを嵌め込んだドア。
それが、内側から開いた。
一つに結んだまっすぐな金髪と、青い瞳。
七郎次だった。
薄紫色のコットンシャツに、細身のチノクロス。その上から、厚
手の黒いエプロンを付けている。
ドアに「営業中」のプレートを掛けると、七郎次は、ううんと一つ、
伸びをした。
秋晴れの、良い天気だ。たまに顔を見かける近所の老夫婦が、
会釈して通り過ぎて行った。
午前十時。
最初の客が来る前に、準備を済ませてしまわなければ。
深呼吸ひとつ、七郎次は再び店内に戻った。
フロアを見回す。
使い込んだ飴色の家具と、これだけは妥協しなかった、高価な
椋材の床。
カウンターの内側には、これまた今時珍しいコーヒーサイフォン
が鎮座している。
カウンター席を入れても、二十席にも満たない小さな店だが、頑な
に本格的なコーヒーを出す店として知られ、客は少なくない。
目下、これが島田道場の──引いては、勘兵衛と七郎次の食い扶持
になっていた。
オーナーは、形の上では勘兵衛ということになっている。が、実際
に切り回しているのは七郎次の方だ。六花館は、七郎次と、そして
もう一人、夕方から入るアルバイトのバーテンダーで成り立ってい
る。
器具が充分に温まったところで、ドアチャイムが鳴った。今日最初
の客だ。
「いらっしゃいませ……ああ、ヘイさん」
常連客の姿に、七郎次は気安い調子で声を掛けた。
客は、「おはようございます」と、軽く頭を下げ、五つ並んだカウ
ンター席のうち、奥から二番目のスツールに陣取った。
七郎次が笑う。
「もうすっかりそこが、ヘイさんの指定席ですねェ。コーヒーも、
いつもので?」
「ええ。お願いします」
ヘイさんこと林田平八は、屈託のない笑顔と、オレンジに近い赤
毛が印象的な男だった。小柄な体を、厚地のツナギに包んでいる。
ツナギには、ところどころ黒ずんだ油の染みがあった。
六花館からほど近いところに彼が勤める修理工場があるので、休
憩時間にはよくコーヒーを飲みに来る。
平八は、さっと店内に目を走らせると、言った。
「いつものことですけど、またオーナー不在ですか」
「勘兵衛様なら、午前中は道場の方におられます。二人とも空ける
 わけにはいきませんから」
「ご苦労様です。でも、来ない門下生を待つより、シチさんを見習
 って、実入りのある仕事をしたらいいと思いますけど」
浅からぬ付き合いのせいで、平八の言葉には遠慮がない。
七郎次は苦笑した。
「私が断ってるんです。どうもね、あの方が剣以外の仕事であくせ
 く稼いでいるのを見ると、調子が狂うもんで」
言いながら、平八の前に特製ブレンドを置く。今度は平八が苦笑
する番だった。
「甘やかしすぎです!と言いたいところですが、人様の台所につい
て滅多なことは言えませんね。……まあ、相変わらず仲もよろしい
ようですし」
「え?」
眉を顰める七郎次に、平八は「ここ」と指で、自分の鎖骨のあた
りを指して見せた。「見えてますよ」。
「おっと……」
慌てもせず、七郎次は襟元を直した。
昨夜、勘兵衛に残された痕だ。『公私共に』というのは、まさに言
葉どおりで、そちらの方でも七郎次は勘兵衛の女房役を務めて来た。
そのことを知る者は平八を含む、ごく少数に限られているが。
「この店の常連客の半分は、シチさん目当てですからね。お気をつ
 けて」
「ご忠告、痛み入ります」
軽口の応酬で、コーヒーを飲み干した平八は、やがて、
「ご馳走様でした」
と、店を出て行った。
七郎次は、キッチンに置いた鏡を覗き込んだ。白く、しっとりと
水を含んだ膚に、指摘されたキスの痕がくっきりとついていた。
数日は消えずに残るだろう。
「……まあ、仕方ないか」
求められなければ、どこか具合でも悪いのかと心配になる。平八
に何と揶揄われようと、盛んなくらいで丁度良いのだ。
第一、夜の女房役は、無理強いされているわけではない。自分も
望んで、受け入れたのだ。
とりあえず、客のいない時間は、冷やしておこう。
七郎次は、冷蔵庫から砕いた氷を取り出した。

                     「三、 ヘイハチ」に続く


2006.9.1
カンベエ様が店に来ている時は、多分奥の席で新聞読んでます。
ちなみに新聞は日経と朝日と東スポです。