〜カンナ町二丁目島田道場シリーズ〜

    【浮世に華を咲かせましょう】




          プロローグ


かつて江戸と呼ばれた、日本で最も華やかな都、東京。
時代が下り、二十一世紀もすっかり板についた現代におい
ても、しかし、一部地域には未だ、侍と呼ぶに相応しい男達
が生息していた。
カンナ町。
東京二十三区内にあって比較的下町の風情が残る、某区の
一角に、それはある。
旧営団地下鉄、今の東京メトロはもとより、度重なる都営
地下鉄の開発からも「あ、しまった。忘れてた」とばかりに
置き去りにされてしまった町だ。
このカンナ町、中でも西側に位置する二丁目を舞台に、
侍チックな男たち(と、プラスアルファ)の物語は始まる。





           一、 カンベエ


青い畳の上に、朝の陽射しが落ちている。
隅々まで掃き、丁寧に拭き清められた広い道場の真ん中に、
正座する男が一人。
浅黒い肌と彫りの深い顔。年齢は四十半ばほどだろうか。
がっしりとした骨格の、広い肩幅。藍色の着物に包まれた
胸は、その肩に相応しい厚みを持っている。
緩い癖を持って長く伸ばされた髪は一つに束ねられ、男の
厳しい頬を陽の下に晒している。
男は、目を閉じていた。
深く息を吸い、吐き出す。
そうして三十分ほども黙した後、男は漸く目を開けた。
思慮深さを示す瞳には、隠しようのない翳りがある。
男の名は、島田勘兵衛。
剣術を主に教える、この島田道場の師範である。
勘兵衛は、ぐるりと道場の中に視線を巡らせた。
丁寧に拭き清められたそれは広さだけは十二分にある。
──そう、広さだけは。
勘兵衛は正面、神座に掛けられた額縁を見上げた。
そこには、堂々とした筆で書かれた道場訓が収められている。

『一日一膳』。

絶対に最後の文字は間違いなのだが、ここには誰もそれを
指摘する者はいない。
元々勘兵衛は細かいことを気にする性質ではないし、勘兵
衛に長年連れ添って来た師範代は、その文字を見た途端、いい
じゃないですか、とひと言、笑い転げた。
第一、書き直してもらおうにも、先立つものがない。
壁にも、天井にも、修繕の必要な傷みがあちこちに見える。
早い話が、島田道場は貧乏だった。



「勘兵衛様」
道場の外から、声が掛かった。
勘兵衛の目が、額縁から声のした戸口へと向けられた。
「シチか。入れ」
木の扉がスッと音もなく引かれ、端座した男が姿を見せた。
およそこの場には似つかわしくない、一つに纏めた金髪と、
陶器じみた白い肌。何かにつけ無骨な感のある勘兵衛とは好
対照に、線が細く、端麗な顔立ちをしている。涼しげな目元
に、何ともいえない艶があった。
この道場の師範代、七郎次は、伏せていた顔を上げると、
言った。
「朝食の支度が出来ましたが」
「うむ。すぐに行く」
応えて、勘兵衛は再び、天井に目を走らせた。
視線に気がついた七郎次も、同じ箇所を見遣る。
「そろそろ、修繕が必要ですね」
壁や天井に出来た隙間は問題だ。風はともかく、雨が吹き
込むと畳が濡れてえらい騒ぎになる。
つい先日も、東京を直撃した台風にやられて、知人友人総出
で拭き掃除をしたばかりだった。
「修繕屋に頼むとするか……」
勘兵衛の物憂げな言葉に、七郎次は頷いた。
「では、今日中に見積を取り寄せて置きましょう。なあに、
金はどうにかなります」
明るい声音に、勘兵衛の表情が和らぐ。
「苦労をかけるな」
「苦労が嫌なら、とうの昔に逃げ出していますよ。さあ、朝
食にいたしましょう」
七郎次は道場に続く形で建てられた母屋の方へと戻って行
った。勘兵衛も立ち上がる。
公私に渡り、もう十年以上も勘兵衛の女房役を務めて来た
七郎次は、勘兵衛の扱いをよく心得ている。

人は、これを『亭主の操縦法』と呼んだ。
 


                     「二、シチロージ」に続く


2006.8.28
思いついてしまった現代版。10月の新刊はこれでいきます。

こんなネタでも笑ってくださる方がいたら嬉しいな…。
ちなみに表紙と挿絵は さくらひかる嬢です。
そして本誌はR-18です。