蛍のため息



どうしようもない男に惚れたものだと思う。
もう十年も昔の、恋なのか何なのかすらも掴めない記憶に、
未だ囚われている自分が情けない。情けなくて、涙まで出そ
うだ。
夏物の薄い布団を頭からかぶり、きつく目を閉じても、闇
をちらつく蛍のように、あの男の顔が浮かんで離れない。
骨張った逞しい顎と、厳しい横顔。何者も寄せ付けず、だ
が、それが時折浮かべる酷く優しい表情を、確かに自分は知
っていた。
そして思い出す、この身を呼ぶ低い声。
──シチ。
途端、甘い戦慄が、背筋を駆け上った。
ハッと目を開けたが、そこには、目を閉じる前と同じ、夏
の夜闇があるばかりだった。
七郎次は、舌打ち一つ、布団の上に起き上がった。
こんな時は、大抵夜明けまで眠れない。
そして、そういう時に限って、あの柔らかな声音で癒し宥
めてくれる雪乃はいないのだ──今夜も。
下穿き一枚の躰に、女物の浴衣を羽織る。一昨日、女中が
「シチさん、似合うから着てみてよ」と酔狂で置いていった
ものだ。
七郎次にとって、それは洒落にもならない代物だったのだ
が、無論、件の女中が知る由もない。
白地に、青灰色で蜘蛛の巣が染め抜かれた浴衣は、蛍屋の
ような水商売に身を置く女達が好んで着るものだ。
良い男が引っ掛かりますように、という願いを込めている
のだと聞いた覚えがある。
七郎次は、腰高の障子を開け、頬杖をついた。
鯉を放した池を中心に、木々を巡らせ、岩を配した箱庭。
その向こうに、未だ灯りの落ちない座敷が見えた。
芸者が爪弾く三味線の音と、微かに混じる、艶っぽい女の
喘ぎ。
聞くともなしにその声を聞き流すうちに、またあの男の記
憶が甦った。
──俺のために死ねると言うなら、俺のために生きること
も出来るだろう?
浴衣の襟元に指を滑らせた。白い膚に残る、熱い唇の感触。
つい先刻のことのように、思い出すことが出来る。
「……蜘蛛の巣に引っ掛かってくれる男なら、良かったんだ
 けどねえ……」
あの男は、もう戻っては来ない。
切れた絆は戻らない。
自分ひとり生き残って、それでも尚、忘れることすら出来
ないなんて。
「……勘兵衛様……」
呟き、顔を伏せた。
ほら、やはり洒落にならない。
きっと自分は、太鼓持ちとしてすら生きていけないのだ。


       ×  ×  ×


戦場のただ中で、まるで熱病の発作のように、時折唇を貪
ろうとする男が、愛しかった。
初対面の時から、無骨で、無口だった上官──島田勘兵衛
は、ある時突然、七郎次に向かって、言い放った。
──俺のために生きられるか。
その言葉に至るまで、一体どんな話をしていたのか、七郎
次はとんと覚えていない。が、その後の彼の言動からすると、
多分、「俺たち下士官は、あなたのためなら死ねますよ」とか、
そんな内容のことを言ったのだろうと思う。
七郎次は迷わず「生きられる」と応え、それから間もなく
して、その言葉の裏側の意味を知った。
軍隊に入るまで、考えてもみなかった行為だったが、七郎次は
「勘兵衛のために生きる」という、その言葉を表裏ひっくるめ
て、丸ごと飲み込んだ。
もともと男色趣味があったわけではない。自分がそういう
道に足を踏み入れることになるとは思ってもみなかった。
日常的に命のやり取りをするような異様な状況が、性欲を
昂ぶらせ、モラルや理性といったものを吹き飛ばしていたの
かもしれない。
あるいは、勘兵衛という男に、自分の躰など投げ出しても
構わないほど強く惹かれていたか……どちらかだ。
関係は、自分が彼の片腕として過ごした、四年の間、途切
れることなく続いた。まさに生き別れになった、その前日ま
で。

もう一度、触れることが出来たなら。あの手に、あの唇に
……あの胸に。
もう一度、抱いてくれたら。
そして、もう一度、囁いてくれたなら。
──シチロージ。
たった一言でいい。
その言葉だけで、自分は失った時間の全てを埋めることが
出来るというのに。
何故、彼はいないのだろう。


       ×  ×  ×


「……また、彼のお人の名前を呼んでいたねえ」
高過ぎず、低過ぎず、耳に優しい女の声。
いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。
七郎次は、うつ伏せていた窓枠から顔を上げた。
「……雪乃」
「あいな」
この五年、何くれとなく七郎次の面倒を見てくれていた女将
は、ゆったりと団扇を動かし、七郎次に風を送りながら応え
た。
未だ早朝だが、彼女にとっては夜の続きなのかもしれない。
店で纏う、ほどよく崩した着物の胸元も、生来の美しさを
引き立てる華やかな化粧も、乱れた様子はない。
「すまないな。ちょいと眠れなくて」
「それで、寝たら寝たで、愛しい人の夢を見たって?私の顔
 なんて、今の今まで忘れていたんでしょうよ」
絡む口調だが、意地の悪さは感じさせない。男と女の、程
よいじゃれあいの加減を知っている雪乃は、そんな無粋な真
似はしない。
ただ、ほんの少し悲しげな色が、目元に浮かんだ。
「……そんなんじゃねェよ」
抱き寄せようと伸ばした七郎次の手をやんわりと押し返し、
雪乃は首を振った。
「あたしはあんたを拾ってから、ずぅっとあんたを見て来た
 んだよ?あんたが知らないあんたのことも、知ってる。
 彼のお人の名前を呼ぶ時、あんたが泣きそうな顔をしてるこ
 ともね。……そら、涙拭いたら?」
慌てて目元を拭おうとすると、雪乃は弾かれたように笑い
出した。
「嘘よ」
「──!」
衣擦れの音を立て、立ち上がる。
「もう少し、お休みな。ただし、今度は布団でね。あたしは
 まだやることがあるんだ。おお、忙しい」
「雪乃……あのな」
出て行こうとする雪乃を呼び止める。戸口で振り返る女に、
七郎次は言った。
「……ありがとうよ」
雪乃は微笑を浮かべ、襖を閉めた。
何も言わず、何も聞かず、一人にしてくれる彼女の気遣い
が、何よりありがたかった。



                 前編・了


2006.8.26
初書きサム7。真夜中にさくらひかるさんにFAXで送りつけた代物…。
そして、ひかるさんから「浴衣で頬杖をつくシチ」頂きました!
ひかるさん、ありがとうvvv