雪がふる


驚いた顔をしていた。
信じられないことが起きた。そういう表情だった。
真紅のコートに穿たれた黒い小さな穴から、薄い唇から、コート
よりも赤い液体が溢れ、彼を汚した。
倒れる。
勘兵衛が彼に駆け寄るのが、スローモーションの映像のように見
えた。
撃ってしまった。
彼を。
誰よりも憧れた、誰よりも美しいと思った、あの人を。
この手で。
生まれて初めてトリガを引いた指は、まるで固まってしまったよ
うに動かない。銃撃の反動だけが、残っている。
勘兵衛が、腕に抱いた彼に向かい、何事かを言っている。
彼の声は、聞こえなかった。
喋らなかったのではない。勘兵衛が、頷いている。小さすぎて、
この耳までは、届かなかったのだ。
最期の言葉すら、聞くことが出来ない。
命の終わるその時まで、あの人は、自分を見てはくれなかった。
あの人が見ていたのは、ただ一人──一人の男だけだった。

「久蔵殿!」

勝四郎は慟哭した。


         ×  ×  ×


初めて見た時から、惹かれていたのだと思う。
同性に、それも男子に対して使う形容ではないのかもしれないが、
確かに美しいと思った。
実家で暮らしていた頃に会った、武家の女達の楚々とした美でも、
キララや街の娘達が持つ、溌剌とした美でもない。
鋭く研ぎ澄まされた刃物を見るような、凄絶な美貌だった。
金色の髪と、人形のような白い膚。ほっそりとした躰つき。
だが、剣を振るう彼は、決して飾り物ではなかった。
一人の侍としての憧れが、一体いつ、別の感情に変質したのかは
定かではない。変わり果てたその感情を、何と呼べば良いのかも、
勝四郎には判らなかった。
ただ、『久蔵』という名の、その人の瞳の中に映りたかった。自分
を見て欲しかった。
久蔵の目には、もう勘兵衛の姿しか映っていなかったのだが。
 

         ×  ×  ×


「やはり、ここだったか」
背後の声に、勝四郎は振り向いた。
勘兵衛の古女房と呼ばれる男──七郎次が立っていた。
金髪も、陶器じみた白い膚も、細い躰も、端麗な顔立ちも、久蔵
によく似ている。
だが、見詰める者を拒絶し、斬り捨てるような久蔵の美貌に対し、
七郎次のそれはもっと穏やかな、人を抱き寄せる温かみがある。
「キララ殿が夕食の支度が出来たと、探しておられたようだが?」
「……そうですか」
正直、食欲はなかった。
勝四郎は、力なく首を振り、それまで見ていたものへと目を戻し
た。
先の戦で死んだ仲間たちの墓。墓標代わりに突き立てられた二本
刀が、そこにはあった。
「この刀をあの修羅場から持ち出されたのは、七郎次殿でしたね」
それだけではない。
七郎次は、こっそりと──勘兵衛の目すら盗んで──金色の髪を
ひと房、持ち出していた。それは今、勝四郎が持っている。
『久蔵殿の御髪です』と、そう言って渡されたのだ。
「髪だけでは足りぬと?」
淡々と尋ねる七郎次に、勝四郎は応えた。
「欲が、深いのです。私は」
微かに、笑う気配があった。十七やそこらの子供が口にすると、
滑稽な言葉だったろう。
だが、勝四郎の口は止まらなかった。
「私が、殺しました。この手で」
「戦さ場とはそういうもの。誰の身に、何が起こっても不思議じゃ
 ない」
「それでも、久蔵殿がこの世から消えてしまった事実は、変わりま
 せん」
七郎次は、少し黙った。暫しあって、それから言った。
「あれからずっと、自分を責めておられるのか」
「……責める?」
勝四郎は、七郎次に向き直った。彼の目に、僅かな痛みがあった。
「あの時撃たなければ……あの時あの場所に自分がいなければ、久
 蔵殿は死ななかった、と、自分を責めておいでか」
少し、違った。
七郎次の言うようなことを、考えて堂々巡りをしていたこともあ
った。だが、今は違う。
勝四郎は言った。
「言ったでしょう?私は、欲が深いと」
七郎次が、心持ち首を傾げる。
その目を見詰めた。
「久蔵殿が見ていたのは、先生でした。……最期まで」
「……!」
生来の勘の良さで、何を言いたいのか気付いたのだろう。七郎次
が、ハッと目を瞠った。
「あの人に、私を……私だけを見て欲しかった。拒むことなく、私
 を受け入れて欲しかった。先生ではなく。他の誰でもなく。この私
 を」
「それは……」
「叶わなかった。あの人の目は、先生しか見ていなかった。私には、
 隙間すら与えられなかった」
「おやめなさい。勝四郎殿」
「久蔵殿を殺めてしまった己を呪い殺したい一方で、どこかで安堵
 している自分がいる……手に入らなかったのだから、これで良かっ
 たのだと……」
「勝四郎殿!」
両肩を掴み、揺さぶられた。
普段は飄々とした七郎次の、思いがけない剣幕に、勝四郎は黙っ
た。
「おやめなさい。それ以上言ってはなりません。例え、貴方が今何
 を思おうと、久蔵殿は還っては来ない。口にしても、懺悔は出来な
 い。貴方は、貴方の胸に全てをしまい込んで生きるんです」
「私の胸に、全てを……」
「それが、大人になるということです」
七郎次の目が、傍らの二本の刀に注がれる。勝四郎も、ゆっくり
と視線を巡らせた。
焦がれても焦がれても、手の届かなかった人。
彼は、あちらの世界でも、勘兵衛を待ち続けているのだろうか。
静けさを纏い、あの美しい姿のままで。
涙が溢れた。あとから、あとから、溢れ、止まらない。
勝四郎は、聞いた。
「……私が御髪を持っていることを、久蔵殿は嫌がらないでしょう
 か?」
七郎次の表情から、険しさが消えた。肩を掴む手から、力が抜け
る。優しい、穏やかな微笑が戻って来る。
「少なくとも、返せとは言わんでしょう」
勝四郎も、微笑んだ。泣き笑いにしかならなかったが。
ちらりと、白いものが落ちて来るのが見えた。
「雪が……」
呟きに、七郎次が目を上げる。
「初雪か」
見る間に冷たい欠片は数を増やし、忽ち、枯れた草木に、凍える
土に、白い斑を描いた。
久蔵の刀に、仲間達の墓に。
そして、生き残った者の悲しみを凍りつかせるのだ。
「さあ、そろそろ戻るとしましょう。食事が冷めちまう」
歩き出す七郎次の後を追いながら、勝四郎は言った。
「春が来る前に、私はここを出ようと思います」
七郎次は応えなかった。
ただ、勝四郎を振り返り、微かに頷いただけだった。


春が来る前に。
雪が解け、あの人の墓標を見せる前に。


届かなかった恋心とあの人の髪を胸に、一人、この場所から
もう一度、歩き出すのだ。



                                了


2006.8.22
踏み切りのど真ん中で思いついて、2時間で書き上げた作品。お粗末!