幻の桜 

ひらひらと、薄紅色の花びらが舞い落ちる。
 立ち尽くすその周りを、風に乗り花弁が踊る。たけなわの春が、
そこかしこで踊る。
 ──綺麗だなあ。
 呟きが口を突いた。
 前を行く男が立ち止まり、ぐぅるりと辺りを見渡した。
 ──綺麗だね。一面桜色だ。
 息を吸い込むと、甘やかな匂いに酔いそうだった。
 ──先生、桜はこの季節だけなんでしょう?
 イーストブルーの中でも、四季がある島は珍しいのだと、道場の
仲間たちに聞いて知った。どこか遠く、一年中春の島に行けば、ず
っとこの光景が見られるのだろうか。
 そう尋ねると、師は穏やかに笑んだ。
 ──そうだね。いつでも桜が咲いている場所もある。でも、ほん
のひと時だからこそ、良いとは思わないか?
 ごらん、と彼は桜の幹を指した。
 黒っぽく、厳ついそれはどう見ても、はんなりとした花に相応し
くない。
──桜の色も香りも、この幹の中にあるんだよ。花びらはそれが
外側に溢れているに過ぎない。一年かけて、この幹の中で色や香り
が作られ、そしてこの季節に漸く溢れ出すんだ。
時間が作り出すものだから、現れる瞬間を待つ時間も、また楽し
くはないか。
師はそう言って、一面の桜を眺めた。
それに倣って、もう一度、空を覆い尽くしそうな花の饗宴を振り
仰ぐ。
また来年。
ここに立ち、この色と香りに巻かれる日まで。

待つ時の長さも、また、楽しからずや。


           × × ×


 語らうクルー達の声に、階段を降りる足音が混じった。
 踵の高いエスパドリーユ。ナミだろう、と予想した時、当の本人
の声が聞こえた。
「次は常春の島だっていうのに」
ゾロは片目を開けた。
腰に手を当てたナミは、酷く機嫌が悪いらしく、眉間に皺を寄せ
ていた。
デッキテーブルを囲んでいたルフィたちが、一斉に彼女の方を振
り返る。
こんな時は、触らぬ神に祟りなしだ。余計なことを言えば、妙な
ことに巻き込まれかねない。これまでの経験で嫌というほど思い知
らされているゾロは、壁際で座禅を組んだまま、聞こえないふりを
した。見張り台のウソップを除けば、珍しく全員揃っているのだ。
放っておいても、サンジかルフィあたりが話を聞いてやるだろう。
「何だよ、どうかしたのか?」
 案の定、退屈していたらしいルフィが尋ねた。
「どうもこうもないわ」
 航路に問題でもあるのだろうか。次は春島──明日の昼前には到
着する筈だと聞いているが。
 金銭が絡むと多分に問題のある女だが、航海士としての腕は確か
だ。もし何かトラブルがあるのならば、耳には入れておかねばなら
ない。
 しかし次の瞬間、ゾロはちらりとでも真面目に受け止めたことを
後悔した。
「春物の服が無いじゃないのさ!」
「はるもののふくぅ?」
 ルフィの首が、見事に直角に曲がった。
「俺なんて大体いつもこれだぞ」
 ルフィが胸を張れば、
「俺もだ」
と、チョッパーも自分の毛皮を摘んでみせる。
 そこに二連発で踵落としが入った。直撃を受けたルフィとチョッ
パーが、脳天を抑えてへたり込む。
「オメーらとナミさんを一緒にすんな!」
 がなるサンジと、蛙のようにゲロゲロ泣いている二人を見比べ、
ナミは盛大に溜息を吐いた。
「とにかく、港に着いたら私はすぐにショッピングに出るからね。
ロビン、あなたも来るでしょ?」
 ペーパーバックの影で忍び笑っていた女が、顔を上げた。
「ええ・・・・・・そうね。新しい服と帽子と、香水も切れかけてたから
買い足さないと」
「じゃあ、一緒に出ましょう。結構大きな街らしいから、ちょっと
お洒落なレストランでランチを食べて、買い物をして、それか
ら・・・・・・」
 明日は朝から大騒ぎになりそうだ。
 散ってしまった気を集中しようと、深く息を吸い込んだ時、床板
を踏む音が近付いて来た。ふっと顔に影が落ちる。
「──何だ?」
 ターコイズブルーのシャツと黒のスラックスを纏った、背の高い
人影が、陽光を遮りこちらを見下ろしている。細い髪が陽に透けて、
まるで金色の糸のようだ。
 サンジは火のついた煙草を咥えたまま、たっぷり数秒黙り込んで
から、口を開いた。
「明日、付き合え」
「ああ?」
「何だよ。どうせ暇してるんだろう。聞いたとおり、明日の昼は俺
もお役ご免だからな、ちょっと買い出しに出たいんだ。荷物持ちが
必要なんだよ」
 この人数分の食糧を買い込むとなると、大変な量になる。一人で
は確かに辛いだろう。
「・・・・・・判った。暇じゃねェけど付き合ってやる」
「いちいち勿体ぶってんじゃねェよ」
 短く舌打ちして、サンジがデッキテーブルへと戻って行く。その
背中を見送り、ゾロは急速に春めいてきた空を見上げた。
 春島が近いのだ。


              × × ×


 港町『スプリング・ヤード』は、賑やかな街だった。
 一年中温暖な気候のせいか、住人の性質も穏やからしく、おっと
りと独特の喋り方をする。
 石畳の道も、その両脇に立ち並ぶ店にも、淡いピンク色の石が用
いられていた。
 入港する直前、遠目に街並を見たナミが、
「街全体が、桜の森みたいね」
と評したが、まさにその通りだった。
 春の島の、ここは桜の街なのだ。
「いらっしゃいませ。新しいデザインが入荷してますよ」
 数歩歩くごとに掛けられる呼び込みの声に、いらない、と手を振
り、通り過ぎようとする。その腕を、サンジが掴んだ。
「ちょっと待て。ここ、この店も寄ってみたい」
「またかよ・・・・・・」
 これで何軒目だと思ってるんだ。言いかけた言葉も終わらないう
ちに、さっさとサンジは店に入って行く。
 ゾロは恨めしげに店のドアに貼られたポスターを見遣った。『甘
く見つめられたい』と、怪しげなキャッチコピーの隣で、若い男が
白い歯を見せて笑っている。
どっと疲れが押し寄せて来て、ゾロは顔を顰めた。食糧だと思っ
たから付いて来たのだが、それは勘違いだったらしい。朝から付き
合わされたのは、ブティックばかり、もう十数軒に及ぶ。
「ゾロ!さっさと来いよ!」
 店内から鋭く呼ばれて、ゾロは両手一杯にぶら下げた紙袋を持ち
直した。


 足を踏み入れてみると、ポスターの胡散臭さとはうってかわって、
シンプルな造りの店だった。
 明るいパイン材の棚には、色鮮やかなトップスやボトムスが積ま
れていたが、色や素材で整然と分けられているせいか、ここに来る
までに覗いた店よりは、よほど落ち着いている。
「これ、持ってろ」
「おっ・・・・・・おい!」
 持っていた紙袋二つをゾロに押し付け、サンジは嬉々として服を
漁り始める。
 襟ぐりに赤いパイピングが施された生成りのセーター。鮮やかな
オレンジ色のシャツ。サルビアブルーのTシャツ。タータンチェッ
クのクロップトパンツ。ゾロならば、逆立ちしても買わないような
代物ばかりだった。
「どうかな。イマイチか?」
「・・・・・・似合うからいいんじゃねェか」
 ノースブルー出身者特有の、白い肌と金髪のせいか、それとも、
ひんやりとしたノーブルな顔立ちのせいか、黙ってさえいれば大人
びて見える彼だが、鮮やかな色を纏うと途端に年齢が下がり、年相
応か、あるいはもっと幼く見える。
それを知っているから頷いたのだが、どうやら相手はそう取らな
かったらしい。
「いい加減なこと言いやがって」
 ツンと顔を背け、サンジは店員を呼んだ。店の奥から若い男が駆
け寄って来る。
「セーターと、パンツと、シャツとTシャツで、全部で四点。他に
は何か?」
 年はゾロやサンジと殆ど変わらないだろうに、如才なさげな店員
は、反対側の壁に沿って置かれた、ガラス棚を指し示した。
「うちは、グランドラインは勿論、東、西、南、北、それぞれの海
にも取引先を持ってまして、シーズンごとに新しい香水が入荷する
んです。丁度、イーストブルーからの新作が、昨日届いたばかりで
すよ」
 並べられた服に負けない、色の玩具箱がそこにあった。青、赤、
緑、黄色──透明なもの、半透明なもの、全く中が見えないメタリ
ックもある。
「へえ・・・・・・」
 サンジの細く長い指が、色とりどりの香水瓶へと伸びる。それは、
迷うように動きを止めたが、やがて、一本を選び出した。背の高い、
細いピンク色のボトルに、球形のクリスタルの蓋。
 彼が手首に一吹きすると、忽ち辺りに甘やかな桜の香りが漂った。
「チェリーブロッサム」
店員が、にやりと笑った。
「そいつは女物ですよ。彼女にでも?」
 てっきり、ナミかロビンにでも買ってやるのかと思ったのだが、
予想は外れた。
「いや、自分に」
 そう言って、空中にもう一吹きし、霧の中をくぐる。
 店員がヒュウッと短く口笛を吹いた。
「これももらうよ。桜の街に来た記念だ」
 店員に金を払いながら、サンジが言った。
「おい、ゾロ。荷物持ちしてくれた礼に、昼飯おごってやるよ」
 だからありがたく受け取れ。
 とても礼とは思えないような言葉を口にして、笑う。
 その髪から、甘い香りが立ち昇った。


 おごってやると言うから、どこの酒場に入るのかと思えば、サン
ジが入ったのはテイクアウトの弁当屋だった。
サンドイッチを二つと、つまみを数種類、それにビールを二缶。
買い込んだ食べ物を手に「付いて来いよ」と、サンジは先に立って
歩き出す。
「外で食うのか」
 尋ねるゾロに振り向きもせず、
「ああ。折角来たんだ。永遠の桜並木って奴を見てみようぜ」
「永遠の・・・・・・?」
 ゾロは目を眇めた。
 ──一年中、この風景が見られる場所も、あるんでしょう?
 雑踏を軽い足取りですり抜けながら、サンジは話し続ける。
「昨日、ナミさんから聞いたんだ。ここじゃ桜が一年中見られるら
しいぜ。一つの木が葉桜になれば、また次のが満開になる。だから、
いつでも花見が出来るんだってよ」
 賑わう大通りを抜けると、立ち並ぶ建物がめっきり少なくなった。
代わりに、ぽつぽつと木々が現れ始め、それは木立に、林に、そし
て森へと変化した。
 もう街から二キロは離れただろうか。森の小道には、自分たち以
外に人影はない。
 ふと、サンジが足を止めた。
「あれか・・・・・・」
 指が、前方を指し示す。
人工的に作られたものなのか、それとも自然にそうなったのかは
定かでないが、森の中に、更に森があった。そこだけが全く別世界
のような、緑の中に唐突に現れた、薄紅色の集落。
「・・・・・・桜の森だ」
 呟き、サンジは再び歩き出した。
薄紅い森の中に、二人で迷い込んで行くような錯覚に陥る。
「誰もいねェんだな」
「そりゃあ年中咲いてりゃ珍しくもないだろう」
 足を止め、言葉を交わしたが、その声までが桜たちに吸い込まれ
てしまいそうで、それきりどちらも口を噤んだ。
風が吹き、枝が揺れる。満開の桜が花びらを散らした。甘い香り
と花弁の渦に巻かれる。
 子供の頃に感じたあの純粋な驚きが、ちらりとゾロの胸を過ぎっ
たが、それはすぐに醒めた。この桜は、永遠に消えることがないの
だ。
 どんなサイクルで咲いているのかは知らないが、きっと散っては
咲き、咲いてはまた蕾を付け、を繰り返しているのだろう。
 ここには、色を温める秋も、香りを熟成させる冬も存在しない。
 ──ほんのひと時だからこそ、良いとは思わないか。
 呆けたように、隣で立ち尽くしていたサンジが、溜息混じりに呟
いた。
「すげェなあ・・・・・・こんな場所が、本当にあったんだな。一年中、
こんなのが見られるなんて・・・・・・っ!」
 一際強く風が吹いた。
 サンジが目を瞑る。舞い上がる髪を抑えようとした手を、ゾロは
無言で掴んだ。
「おい!何考えてんだ!」
 抗議の声が上がったが、構わず細い背中を抱き寄せる。白いうな
じに顔を埋めると、香水の甘い匂いが鼻腔を刺激した。
「離せよ・・・・・・」
 サンジが力なく首を振る。ますます強く抱き締めると、彼は諦め
たように、手にしていた袋を離した。ビールの缶が下草の中に転が
る。
「・・・・・・こんな場所で、レストランやったら楽しいかな」
 ふと、サンジが言った。
「来る日も来る日も、桜を眺めて・・・・・・デザートも桜のゼリーとか
ムースで・・・・・・いつも春の食卓でよ」
「つまんねェよ。そんなの」
 ゾロの言葉に、サンジが拗ねたような声を上げた。
「何でだよ。綺麗でいいじゃねェか」
「今しか見られないから、良いんだ。他の季節は・・・・・・」
 首筋に唇を押し当て、その香りを深く吸い込む。幻の桜。
「見えない桜に焦がれて過ごすんだ」
 一瞬黙り、それからサンジは苦笑した。
「たまにお前、すっげェ気障なことを言いやがるよな」
「何とでも言え」
 振り向いたサンジの、薄い緑色の瞳が微笑っていた。
 お互い言葉もなく、唇を寄せる。

「桜を抱いてるみてェだ」
 そう口にすると、また小さくサンジが笑い、ゾロの爪先を踏んだ。


                              了