The Wind Whispers


形のいいピンクの爪の指先が、グラスを弄ぶ。
 縁を摘み、軽く振ると、底に残っていた紅い液体がたわんだ楕円になった。
『飲み過ぎたかな。酔ったみたい』
 呂律の回らない舌でらしくもない台詞を呟くけれど、それが嘘だということは、
居合わせた誰もが知っていた。
 彼女の普段の酒量を考えれば、今日の酒は決して多いとは言えない。
 寧ろ、酔いつぶれて、解放されたいのだろう。心を縛る哀しい記憶から。
 ウソップが席を立った。彼女への心遣いというよりは、重すぎる空気に耐え切れ
なくなったというのが正直なところか。
 ルフィは無言のまま食事を続け、ゾロは手酌で酒を煽っている。
 彼女──ナミの前に置かれた皿に、ぽつりと透明な滴が落ちた。
 今日のメインディッシュだったそれは、一口目以降、殆ど手を付けられないまま、
皿の中で冷えていた。
 鴨の蜜柑ソース添え。
『……ベルメールさん……』
 ぽつんと呟き、彼女はテーブルに伏せた。
 その様をサンジは壁際で見詰めていた。
 こんな時、自分を育てた男なら、世界中の海を巡った、あの料理人ならどうするの
だろうか。
 そんなことを思った。


                    ×  ×  ×


 日中は殆ど風のなかった海上も、陽が落ちると共に波が高くなった。
 船上という人口の陸地に根付いた蜜柑の木が、大きく広げた枝葉を揺らす。
 天候も季節も何一つ規則性のない、このグランドラインの過酷な環境をものともせ
ず、たわわに実った蜜柑が、甘酸っぱい芳香を放っている。
 その幹の上に腰をかけて、サンジはぼんやりと煙草をふかしていた。
 朧月が、吐き出した煙に更に霞んで見える。
 時折強い風が吹くと、細い枝と共に幹までが軋み、サンジの体を揺らした。
 ふと足音を聞いて見下ろすと、下の甲板からゾロが上がってくるところだった。木の
上に座るサンジを見とめて、足を止める。その姿にサンジも樹上から呼びかけた。
「珍しいな」
「まあな」
 大抵、昼となく夜となく、甲板に足を投げ出して寝ているくせに。
 ゾロはサンジの真下、木の根元に腰を下ろす。その手にワインのボトルが握られて
いることに気付き、サンジは尋ねた。
「……ナミさんは」
「寝に行った。ふらついちゃいなかったから大丈夫だろ」
「そうか……」
 つい溜息が漏れた。そうしてから少し後悔したが、樹下の男はサンジを見上げること
もせず、ボトルの酒を煽っただけで、何も言わなかった。
 チャプンと液体の音がして、覗き込むと、ゾロがボトルを傍らに置くのが見えた。
「おい、一人で飲んでないで、こっちにも回せ」
「ああ、悪ィな」
 蜜柑の木が大きく見えるのは、細い枝が縦横無尽に伸びている為で、本来それほど
高くは育たない。サンジが座っているのも、せいぜい立ち上がったゾロの頭より、少し高
い程度の幹だった。
 少し屈み込むようにして手を伸ばす。ボトルには、まだ四分の一ほど、ワインが残って
いた。
「グラスは」
「んなもんあるか」
 剣以外に関しては、繊細という言葉が全くもって似つかわしくない男だ。
「野郎と間接キスかよ。しけてんな」
 文句を言いながらも、サンジも直接瓶に口をつけ飲み下す。
殆ど食物の入っていない胃袋が、アルコールに灼けた。
 ふ、と一つ息を吐いて、残りをゾロに返すと、サンジは幹に座り直し、再び夜空を振り
仰いだ。先刻まで天空で茫洋と霞んでいた月は、流れの速い雲に隠されて、既に見え
ない。
光源といえば、舳先にいくつか点された灯火だけ、という暗闇の中、サンジの声がした。
「……なあ。料理人って、一体何様なんだろうな」
「ああ?」
 初めて聞く者は、よほどこの剣豪が不機嫌なのだと思うだろう。それほどに愛想のない
声音だったが、決してそうではない。純粋にサンジの意図が掴めず、聞き返しただけである。
 サンジは宙空を見上げたまま、動かない。例えゾロがその場にいなくても、独り言として
呟いたかもしれない。
「昔思い出させて、それも辛いこと思い出させて、涙まで流させて。そんな料理、腹どころか
気持ちだって一杯になんかなりゃしねぇよな」
 最後は、少々自嘲気味に吐き捨て、ゾロの目の前で片手をひらつかせた。白く、細い手
だった。
「ワイン。もう少し寄越せ」
 ボトルの中には、確かに酒が残っていたが、しかしゾロはその手を押しやった。
「もうやめとけ。お前が酔っ払ってどうする」
「うるせぇな。飲みたい気分なんだよ」
「ナミを泣かせたからか」
 ピタリと木のざわめきが止まった。
 ゾロはこともなげに続ける。
「それとも、つまんねぇ料理を作っちまったからか」
 忽ち、周囲の空気が険悪な色を孕む。
「何だと……?」
 暗がりの中で、サンジの目が、ぎらりと光って見えた。
「もう一度言ってみろ」
「いいぜ。てめぇの料理が失敗だったからか」
「ゾロ!」
 怒気が空気を震わせる。サンジに同調したのか、枝葉が激しくざわめいた。
 が、口にした当人は気にした様子もない。軽く肩を竦めて流す。
「ふん。バラティエの副料理長てのは、名ばかりか」
「……んだと、この野郎!」
「勘違いしてんじゃねェよ。てめぇの仕事は何だ」
 木から飛び下りかけていたサンジの動きが止まった。
「料理人のことはよく知らねぇ。だからてめぇが何を悩もうが、俺には関係のねぇ話だし、
判ろうとも思わん。ただ、美味い料理で客を喜ばせるのが仕事だってのは判る。……喜
ばせられなかったんだろ。そいつはお前の腕がそこまでだったってことだろうが」
 知らず、樹皮に爪が食い込んでいた。
 肩の震えはゾロへの怒りのせいではない。言われたことが全て真実だったからだ。
『客を不愉快にさせるのは論外。昔食った料理を思い出させるのは未熟者。本当に腕
の良いコックってのは、最高の感動をその時々で与えるもんだ。例え、同じメニューでもな』
 いつだったか、ゼフが言った言葉を唐突に思い出した。
 つまりは、自分の腕が未熟だったということだ。
「邪魔したな」
 ゾロが、ボトルを手に、踵を返そうとする。
「待てよ」
「……?」
 右膝を心持ち折り、男の精悍な顔、左の頬に触れた。
 ──黒いウールのパンツの内脛で。
「やっぱりお前、嫌な奴だよな。ロロノア=ゾロ」
「絡むな。何が言いたい」
「判ってて言わせんのか。……上等だ」
 一際強く、ぐいと脚を押しつけてから、身軽な動きでサンジは地面へ降り立った。
 殆ど高さの変わらない位置で視線が噛み合う。舳先の灯火が、ちらりと薄い緑色の瞳に
映り、揺れた。
「なあ。しようぜ」
 眇められたゾロの視線を引きつけたまま、唇だけで笑うと、サンジはデッキへ続く階段に
寄った。
「ここじゃ駄目だ。下がいい」
 ゾロが拒絶することなど、微塵も考えていないようなその言動の後ろ側に、押し隠された
何かが見えた気がして、ゾロは一つ溜息をつき、サンジの後を追った。
 蜜柑の甘い匂いに、酒のせいではなく酔いが回りそうだっ
た。


 
 砲列甲板を兼ねた倉庫は、何度か使った場所だった。隣は風呂場だが、夜中に風呂を使
う者などいなかったし、真下の部屋のナミに声を聞かれないようにさえすれば、船室の中で
は一番都合が良かったからだ。
 固いばかりで骨が当たって痛い床にも、手を伸ばしたらぶつかる酒樽にも慣れた。男の手
で自分の躰を暴かれることに慣れるのと同じ様に。
「………んッ………」
 先に放った自分の精液で濡れきった最奥は、貪欲にひくつき、ゾロを咥え込む。
 肌の間で擦られ、達したばかりの自身が再び熱を孕み始める。その疼きをどこかにぶつけ
たくて、サンジはゾロを抱き寄せ、ピアスの耳朶に噛み付いた。
「……てッ……」
「こっちは、そんなもんじゃねェんだ。……我慢しろ、クソ野郎ッ……!」
 口づけは、どちらかが達く寸前までしない。
 最初に寝た夜、当然のように唇を重ねようとしたゾロに『俺は女じゃないから気を使うな』と
言って拒んだせいかもしれない。その代わりのつもりか、シャツをはだけたサンジの、細い首筋
から肩のラインに、ゾロはよくキスを落とし、サンジの方も例え跡が残るほど強く吸われても、
取り立てて文句は言わなかった。
 どうせ、シャツに包んでしまえば、見えなくなるのだ。
 不意に肩口から唇が離れる。身を離されたと思った途端、脚を高く担ぎ上げられ、先刻まで
よりも深く身を穿たれた。
「──ッ!」
 微かに漏らしてしまった悲鳴を口を塞ぐことでかろうじて堪える。
 ぽつん、と上から水滴が落ちてきた。──汗。
 相手もそろそろ限界なのかもしれない。荒い息遣いと掠れた声がサンジの耳を打った。
「おい。……辛いのか」
「……たりめーだ、ろっ……。今更……!」
「馬鹿。そういう意味じゃねェよ」
 階下に聞こえないように話すため、自然、囁き声になる。
熱い息に弄られて、背筋が痺れた。
「何……言ってやがる……」
「心配するな。……お前の腕は確かだ」
 また一つ、水滴が落ちて、サンジは薄く目を開けた。
 この言い草が。
 この笑い方が。
 この優しさが。
 悔しいと思う。男としての器の差を見せつけられるようで。
「……余計なお世話だ、クソ野郎。……さっさといっちまえ」
 素直じゃねェよな、とかなんとか、呆れたような声が聞こえたが、サンジは聞こえないふり
で、広い背中に回した指先に力をこめた。
 自分も早く達きたいだけなのだと思わせたかった。



 汗が冷えて、小さな身震いと共に、サンジは目を覚ました。
眠っていたのはほんの数分だったようだ。軽い寝息に隣を見遣ると、やはり乾かない汗も
そのままに、眠り込む男の姿があった。
 耳をすませば、聞こえるのは海面を渡ってゆく風の音。それほどまでに、真夜中の静寂は
深く、重い。
 そろそろと身を起こし、脱ぎ散らかした服を拾い集め、身に纏う。
 いつもより気を使ってネクタイを締め直すと、振り向きざま、つま先で男に軽く蹴りを入れた。
 低く呻いて、彼が目を開ける。
「おい、俺はもう行くからな。てめェもさっさと部屋に戻れ」
「ああ……お前は戻らないのか」
「厨房に用がある」
 背筋の伸びた、細いシルエットを見上げたゾロが、一瞬の間の後、くつくつと笑った。
「なんだよ!何が可笑しい?」
「気にすんな。何でもねえよ」
 舌打ち一つ、サンジは振り向きもせずにデッキへと出て行く。
「素直じゃねぇよな」
 ゾロの呟きは閉じられたドアに阻まれ、届かなかった。



 デッキに立ち、サンジは煙草に火をつけた。
 海風に巻かれ、金色の髪が舞い上がる。
 胸は未だ痛むけれど、だからこそ今は立ち止まれない。
 ただひたすらに剣技を極める男に、これ以上負けたくはなかった。
 だから。
 深く息を吸い込む。甘い蜜柑の匂いの空気が肺を満たした。
 
 ──この匂いと痛みは、死ぬまで決して忘れない──。
 
 
                                          了