植木鉢が邪魔をして、羽が開かなかったのだ。
 縮んだままの無残な羽で、アゲハチョウは何度か飛ぼ
うとしたが、丸一日生き、力尽きて死んだ。
 兄ちゃんの言ったとおりにすれば良かった。もっと高い
場所に枝を立てておけば良かった。
 京介は泣いた。泣きながら、何度も「ごめんなさい」と、
アゲハチョウと兄の両方に謝った。
 自分も悲しかっただろうに、兄は、責める言葉一つ口
にしなかった。泣いている京介の頭を撫でて、
「お墓を作ろう」
とだけ言った。
 二人で作ったお墓に手を合わせた時、小さく押し殺した
ような泣き声が聞こえた。
 顔は見なかった。見てはいけない気がした。
 兄が大怪我を負ったのは、その一年後だ。
 命は助かったけれど、二度と大好きなサッカーはおろか
歩くことすら出来ないだろうと医師は言った。
 原因は京介にあった。兄は京介を守ろうとして、事故に
遭ったのだ。
 いつだって、そうだ。
 兄の声を聞かずに、取り返しのつかない過ちで、兄を
傷つけてしまう。
 折り紙の蝶を見て泣いたのは、アゲハチョウと兄とを
重ね合わせたからだった。
 飛べなくなった──俺のせいで。
 兄は責めない。蝶が死んでも、自分が走れなくなって
も。絶対に京介を責めない。
 それがつらかった。
 だから言ったろう、どうしてくれるんだと、怒り、泣き、
叫んでくれた方がいっそ楽だった。
 けれど、兄は怒らない。泣かない。叫ばない。
 つらいことや悲しいことは、胸に仕舞いこんで、名前の
通り優しく、京介に微笑みかける。
 だからこそ、京介は兄が好きで、そして悲しかった。
彼を傷つけた自分が許せなかった。
 何度も折り紙で遊んだけれど、あの時のアゲハチョウ
と、兄を思わせる「蝶」だけは、どうしても折ることが出来
なかった。


 きゅっと左右に羽を開き、京介は手を離した。
「……折れた」
「すっ……」
 京介の手元に鼻先を寄せるようにして凝視していた
天馬と信助と葵が、同時に飛び起きる。
「すごい、剣城くん!」
「すごいすごい!蝶だよ、見た?天馬!」
「もちろん!息するのも忘れて見ちゃった!すっごいね、
剣城!これも優一さんに教えてもらったの?」
「……ああ」
 羽を広げたピンクの蝶を、京介は見下ろした。
 ──……手を出して。
 兄が折ってくれた、あの蝶だ。
 折れないと思っていた。見れば、また泣きたくなるかも
しれない、と。
 だが、こうして折り上げてみても、涙は出て来なかった。
記憶は薄いカーテンを通して見るように、柔らかく霞んで、
微かに切なさを感じるだけだ。
 不意に、ドアが開く音がして、
「失礼しまーっす」
「失礼します!入ります!」
狩屋と輝が入って来た。性格はまるで違う二人だが、妙
なところで気が合うのか、部活以外でも一緒にいるのを
よく見かける。
「何してんだ?」
「何してるんですか?」
 お神酒どっくりよろしく机を覗き込み、「折り紙!」と声を
揃えた。天馬が自分が折ったかのように説明を始める。
「うん、今ね、剣城が折ったんだよ。一回も折り直しとか
しないでさ、すっごい手早くて──あれ?剣城、どこ行く
の?」
「ちょっと用事を思い出した。電話をかけて来る」
 言い置いて、京介は携帯電話を手に、誰もいない廊下
に出た。
 兄に、話しておきたかった。
 折り紙の蝶を見て泣いたのは、蝶が嫌いだったからで
も、死んだアゲハチョウを思い出したからでもない。
 兄の言葉を聞かずに、彼を傷つけてしまった自分が
許せなかっただけなんだと、判って欲しかった。
 今は──今も、許してはいない。
 でももう、自分もろとも何もかも焼き尽くすような、激し
い怒りはない。
 京介がまっすぐにサッカーと向き合うことが、兄の意
思でもあると理解したからだ。
 わだかまりは、一つずつ消えるだろう。
 蝶が折れたよと、兄に話そう。もう覚えていないかも
しれないけれど。
 兄の携帯の番号を呼び出した。この時間なら、リハ
ビリも終わって、病室で休んでいるだろう。
 呼び出し音が数回鳴り、繋がった。
「あ、兄さん?俺、京介だけど──」
 ぷつん、と音がして、何も応えず電話は切れた。
「……何だ?」
 首を傾げる。
 その時、部室のドアが開いて、天馬が顔を出した。
「剣城、まだ先輩たち来てないけど、着替えて先にグ
ラウンド行こうよ。信助の練習にも付き合いたいしさ」
「判った」
 携帯を閉じ、ポケットに落とす。
 きっと、病院のスタッフと大事な話でもしていたのだ
ろう。話せなかったのは残念だが、練習帰りに病院に
寄ればいい。
 久しぶりに折り紙でも買って行こうか、と考え、京介
は薄く笑った。


                          了


2012.6.22 up