イバラノミチ


 ──一1968年6月 某国──

 不快な気配で、目が覚めた。
 何故、不快だと感じたのかは判らない。ただ、自分が今いる
場所にはまるでそぐわない、異質な空気。それが、意識を揺り
起こしたのだ。
 覚醒しても、飛び起きるような真似はしなかった。薄く、相
手がそれと判らないほど、薄く目を開ける。
 眠る前と同じ、白い天井が見えた。青っぽい闇の中で、それ
は灰色に見える。
 十日前に連れて来られた病院の、個室の天井だった。
 怪我は八割がた治っているが、病院はおろか、この病室から
も出たことはない。
 訪ねて来るのは、担当の医師と看護士、それにこの場所に案
内してくれた『知人』と、その仲間だけだ。それも昼間の、
決まった時間にしか、彼らは来ない。
 そう決めたのは、『知人』だった。
 ──君を、敵対する一切のものから守るためだ。いいかね。
我々は、人目のある昼の面会時間のみ、ここを訪ねる。それ
以外の時間には、決して来ない。
 そう決めておけば、敵と味方の判別が付けやすい。
 来るはずのない時間に現れた人間は、全て敵ということにな
るからだ──と、『知人』は言った。
 その理屈から言えば、眠りを妨げた、この気配の主は『敵』
ということになる。
 目覚めていることを悟られないよう、ゆっくりと、深い呼吸
を繰り返していると、不意に、相手が口をきいた。
「寝たふりは無駄だ。起きているのだろう──円堂大介」
 目を見開いた。
 寝たふりと見抜かれたことへの驚きもあったが、何より驚い
たのは、声が女のものだったことだった。
「大声を出すな。逆らえば殺す」
 低く、ややかすれた英語だった。発音に強い訛りがある。
英語を母国語とする者ではないようだ。
「従っていれば、殺さないのかね」
 静かに円堂大介は言って、右──声の主の方へと首を巡らせ
た。
 黒いぴったりとした上下に、目出し帽を着けた人間が立って
いた。
 170センチ前後はあるだろうか、背が高く、ほっそりとした体
つきをしている。
 黒い手袋の手に、拳銃を握っていた。銃口は、まっすぐに大介
の眉間を狙っている。
「誰かに雇われたのか」
「余計な口をきくな」
「何も知らずに殺されるのは、性に合わないのでね。君を雇っ
たのは、日本人か」
 女は黙った。その沈黙が、答だった。大介の頭に、一つの顔
が浮かんだ。面長で頬骨が張った、この世の全ての不幸を、一人
で背負っているような男の顔。
「日本人の、男だな。私を殺すように、言われたのか」
「協力者を知りたい。お前をここまで手引きしたのが、誰か」
「なるほど。それを答えたら、私は射殺されるわけか」
「……」
「……そして君は、僅かばかりの金を手にする」
 女の目元に、怒りが浮かぶ。大介は続けた。
「この病院は、常に見張られている。それをどうかいくぐって、
ここまで辿り着いたかは知らないが、いずれ人が来る。その時、
私を殺していれば、君にもう助かる道はないぞ。……ほら、足
音が近付いて来る」
 半分はでまかせだった。『知人』もそこまで人を抱えてはいな
い。だからこそ、面会時間を制限しているのだ。
 が、相手は大介の言葉を信じたようだった。廊下に続くドア
を振り返った、その隙を突いて大介は跳ね起きた。ベッドに膝
立ちになる。
 治りきっていない両肩に重い痛みが走ったが、歯を食いしば
り堪えた。
 まず銃を握る右手首、次いで、繰り出された左拳を捕える。
両手をまとめて頭上に吊し上げると、女は呻き、銃を落とした。
 白いリノリウムを敷いた床で、銃が重い音を立てる。
 憎々しげに、女が言った。
「騙したのか」
「すまないが、命には代えられないのでね。すまないついでに、
少しの間、大人しくしていてもらえないか。こう見えても、
怪我人なんだ」
 実際、無理を強いた肩は限界だった。返事を待たずに、手を
離す。
 女は目を見開いたが、銃を拾おうとはしなかった。
手首を擦りながら、固い声で訊ねる。
「仲間を呼んで、私を引き渡すのか」
「仲間?そんなものはいないよ」
 ベッドに座り込み、大介は、ヘッドボードの明かりに手を伸
ばした。立ち尽くす女の長い影が、壁に浮かび上がる。


                              (続く)



2010.7.25
始まりました。円堂守 vs 円堂大介の話です。
ちょっと長くなりますが、お付き合い下さいませv