風を失くした日


「もう、戦えない」
吹きつける海風の中で、風丸の声はかすれ、今にも消えてしま
いそうなほど頼りなかった。
「もう、俺は駄目だよ。円堂」
「何でそうなっちまうんだよ?」
肘を掴み揺さぶってみても、風丸は横顔を見せたまま、振り向
きもしない。
「風丸」
手に触れる。それは驚くほど冷たく、血の気がなかった。
するりと風丸が立ち上がる。
「俺は、お前のように強くはなれない」
何も言えなくなった。
かつて、『お人形さんみたいだね』と、マックスが評したその
白い貌は、本物の人形のようにますます白く、硬く、円堂を拒
んでいる。
風が、ポニーテールをさらさらと揺らした。
突堤から国道へと続く階段を、風丸は登って行く。
その背中を、コンクリートに長く伸びた影を、円堂は呆然と見
送った。

                × × ×

「ホントに、走るのが好きなんだな、お前」
中学に上がったばかりの春だった。
幼い頃からよく二人で遊んでいた鉄塔広場で、風丸を見つけた
のだ。
入部したばかりの陸上部で、散々走り込んで来た後だろうに、
風丸に疲労の色はない。
夕闇迫る中、黙々とスタートダッシュを繰り返していた彼は、
円堂の声にくるりと振り向き、笑った。
「うん、好きだよ」
ボリュームのあるポニーテールがばらけ、汗で肌に張り付いて
いた。
「ただ走るだけって、飽きないか?」
「飽きる?」
僅かに首を傾げる。
「ロードワークならともかく、トラックを走るだけとかさ。
つまんなくないのか?」
くすんと笑みが浮かんだ。
「じゃあ逆に聞くけど、お前は?円堂。サッカーなんて、ボー
ル蹴ってるだけだろ。飽きないのか?」
「飽きねェよ。サッカーは、ボールを蹴るだけじゃねェ。もっと
もっと、面白いことが沢山あるんだ。……あ」
頷いた。
「そう、陸上も同じだよ。ただ走ってるだけじゃない。速くなれ
ばなるほど、違う世界が見えて来る。だから楽しいんだ。お前
がサッカーを好きなのと同じくらい、俺は走るのが好きなんだ
よ」
「そっか」
別に円堂はサッカー以外のスポーツを否定したいわけではない。
好みは人それぞれだし、まして風丸とは、小学校に上がる前から
の付き合いだ。彼が好きだと言うのだから、それはそれでいい。
ただ、ほんの少し、惜しいなと思うだけだ。もし、風丸がサッ
カーの方が面白そうだと思ってくれたなら、サッカー部に誘う
つもりだった。
そう打ち明けると、風丸は形の良い眉をひそめた。
「部員、足りないのか」
長い付き合いだけあって、察しがいい。円堂は素直に頷いた。
「うん。一年から三年まで合わせても、9人しかいないんだ。
去年までは、まだぎりぎり11人いたらしいんだけどさ」
「そう……じゃあさ」
思いついたように、風丸は顔を上げた。
「もし、どうしてもメンバーが必要になったら、声掛けてくれ
よ。俺もサッカーのルールくらいは判るし、練習試合の頭数に
はなるだろ」
「いいのか!」
「いいよ。せっかくサッカー部に入ったのに、試合も出来ない
んじゃつまんないだろう」
「サンキュー、風丸!そん時は絶対ェ、サッカーの面白さ、教
えてやるよ!」
「楽しみにしてるよ」
幼馴染の風丸が、同じユニフォームを着て、同じフィールドを
走る。同じ景色を目にして、自分が感じているのと同じ楽しさ
を、彼も感じるのだと思うと、それだけで胸が高鳴った。
と同時に、気にもなった。
風丸が見ているのは、一体、どんな景色なのだろう。
「俺も、見てみたいな。お前が見てるもの。俺はお前みたいに
速くは走れないから、無理か」
風丸は目を瞬き、それから、
「見てみる?」
円堂の手を取った。屋外での練習時間は、円堂と変わらない
はずなのに、日焼けの兆しもない白い手だった。
「風丸?」
「行くよ」
言うや否や、風丸は駆け出した。手を引かれ、円堂も慌てて後
を追う。
二人で、鉄塔広場を飛び出した。
靴底の感触が、乾いた土からアスファルトに変わる。
始めは、少し急な登り坂。それから、緩やかな下り坂を経て、
河川敷と並行して伸びる直線道路へと繋がる。
三分を過ぎ、五分を過ぎ、十分を過ぎても、風丸のスピードは
落ちない。
それどころか、ますます速くなっている気がする。
サッカーも走る競技だが、トップスピードで走り続けるわけ
ではない。風丸に遅れまいと、必死に走り続けていた円堂も、
さすがに足が重くなって来た。
「かっ、風丸……ちょっと、速、すぎ……」
ひゅうひゅうと喉が音を立て、気管が擦り切れたように痛む。
それでも、風丸の足は止まらない。
「まだだよ」
ぐんと手を引かれる。
足がもつれ、転びそうになって、円堂は歯を食いしばった。
耳元で風が鳴き、胸のドラムとセッションを始める。
眼球が乾いて、涙が滲み、汗と一緒に目尻を流れ落ちた。
ぼやけた景色が、見たこともない速度で両脇を流れてゆく。
白い手に導かれ、風になびく髪と細い背中を見詰めて、円堂は
走った。
橙と紺がせめぎあう空が、いつもより近くに見える。
そうか。
苦しい息の下で、理解した。
これが、お前の世界なんだな。風丸。
周りの風景もかすんでしまうほど誰よりも速く、遠いはずの空
がすぐ傍に感じられるほど、誰よりも遠くに。
その瞬間、風丸はその名前のとおり、風そのものだった。

                 × × ×

線の細い後姿が、視界から消えた。
呼び止めることも、追いかけることも出来たはずなのに、円堂
はそうしなかった。出来なかったのだ。
喉はからからに渇ききり、足は一歩も動かなかった。
「どうして……」
漸く絞り出した声は、自分のものとは思えないほど、かすれて
いた。
「どうして、お前が行っちまうんだよ……風丸」
応えはない。
必要になったら呼んでくれ、と言ったのに。
引き止める陸上部の後輩を説き伏せてまで、サッカーを続ける
と決めたのに。
もう、ここに風丸はいない。
握り締めていた両手を開き、見詰めた。日差しと汗に焼けた手。
白く優しい手を握り、走った時間が、はるか昔のことのように
感じる。
風丸と見た、誰よりも速く、空に近い世界。
二度と、円堂はそこへは行けない。
彼の気配が消える。
円堂の周りで、風が、ぴたりと止んだ。


                              了



2009.8.21
初めて書いた、円風です。
だってさーだってさー45話のラストがあんまりだったんだもん!
どーしてはまった途端、いきなり悲恋モードになるんだよ…(泣)
いやいや、円堂と風丸は悲恋じゃない!悲恋じゃないぞ!
ということで、風丸戻って来ーい!の願いを込めて、アップ。