『CAN'T TAKE MY EYES OFF YOU』 


                 × × ×


 年代物のサイフォンが、四人掛けのカウンターの内側で小気
味良い音を立てている。
 描写が冒頭と同じなのは手抜きではない。
 また、舞台はカフェに戻って来たのだ。そして、今、店にい
るのは、二人だけ。
 フエと、不壊。
 三志郎兄弟は、つい先刻、母親からの『帰って来い』コール
を受けて慌てて飛び出して行った。
 二人残ったフエと不壊は、それからひと言も口をきいていな
い。
 間の悪いことに、こんな時に限って客もなく、気詰まりな空
気に、マライア・キャリーの明るいクリスマスソングが、いっ
そ空々しい。
 カウンターの中で、溜息が一つ。フエだった。手にした文庫
本は、もう十分近くも同じページが開かれたままだ。
「……何だよ」
 カウンターのスツールで、不壊が尋ねた。
 こちらも、三志郎たちを見送ってから、魂でも抜かれたよう
にぼんやり頬杖をついている。
「……何でもない」
 フエが応え、また沈黙が落ちた。
 じっと黙って60秒。いたたまれなくなったのか、不壊が、
また言った。
「何とか言えよ。気詰まりだろ」
「私は平気だが」
「俺が気詰まりなんだよ」
 フエが、形ばかりとはいえ文庫本に目を戻し、不壊のクレー
ムは宙に浮いた。
 溜息が、また一つ。今度は不壊だった。
「何だ」
「……何でもねェよ」
 今度の沈黙は、長かった。


 ごつんと音がした。カウンターに突っ伏した不壊をちらりと
見遣り、フエは、右手人差し指の絆創膏に目を落とした。
 きつめに巻かれたそれに、『もう一人の三志郎』の横顔が浮か
ぶ。
 ──放っとけねェんだよ。
 ちくちくと胸の奥が痛んだ。
 後ろめたいことは何もしていない。だから、この痛みは自分
の心一つの問題だ。
 どうということはない。
気持ちを傾けている少年と同じ顔をした少年と、二人きりの
時間を過ごしただけだ。
 たまたま、彼に傷の手当てをしてもらって、たまたま彼が口
にした言葉に──。
 口にした言葉に?
 そこで、フエの思考は停まった。
 いけない、と、何かが警鐘を鳴らしている。
 止まれ、止まれ。これ以上考えてはいけない。その奥にある
ものを、見てはいけない。
 機械的に、指は文庫本のページを捲った。
 だが、フエの心の襞は、捲られることなく止まったままだ。
 フエは、弟に聞こえないようひっそりと、溜息を吐いた。
 

                       (続く)


2007.9.19 UP
フエは真面目ですな……というより、ウブなのか?(笑)