臍帯


  うねうねと、濃い紫色の霞が蠢いている。
 見渡す限り、ここには『果て』というものが存在しなかった。
霞を透かして見ても、その向うには更に深い霞があるだけで、
およそ遮るものはない。
 何もかもが実体を持たないこの場所で、かろうじて固体と呼べ
るのは足元の床らしきものだけだ。それも、決して広くはない。
 次元の狭間に存在する、個魔の空間だった。
 例え妖逆門といえども、この場所に手出しは出来ない。最初に、
『そう設定された』のだと聞いている。
 今、その空間に、二人の個魔が立っている。
 黒いロングコートを纏った長い銀髪の男と、ぴったりとした黒の
ジャケット姿の赤毛の女。
 不壊と、ウタ。
 二人が目を見交わすことはない。
 背中合わせのまま、不壊は言った。
「こんなところで遊んでいて良いのか?新しいパートナーを見つけ
たんだろう?」
 ウタが、新しいぷれい屋と組んだらしい、という話は、数日前、
別の個魔から聞いていた。
 ひょろりと背ばかりが高く、青白い顔の、見るからに弱々しい
子供だったとその個魔は不壊に話して聞かせ、笑った。
 ──可哀想に、あれじゃあ今回もウタは予選敗退だな。
 ぷれい屋が優勝すれば、個魔の望みも叶う。そういう意味では、
個魔同士もまた、ライバルだ。弱いぷれい屋を引いて、脱落してく
れるなら、それに越したことはない。
「あの子は、そんじょそこらの子供とは違うんだ。心配要らないよ」
 ほう、と不壊は口の中で呟いた。
 何事につけ、皮肉屋で無関心なウタは、妖逆門のげぇむは勿論、
自分が選んだぷれい屋にすら、積極的に関わろうとはしなかった。
『勝とうが負けようが、そんなものは時の運。興味はないね』。
 そう公言して憚らなかった彼女が、こうして自分のぷれい屋の話
をするとは、珍しい。一体どういう風の吹き回しだろう。
「それで?俺に何の用だ?お前と違って、こっちはあまりのんびり
していられないんだがな」
 エントリーの締め切りまで、あと二日。まだ不壊のパートナーは
見つかっていない。遊んでいられないのは、不壊の方だった。
 ウタは大して悪びれもせず「そりゃすまなかったね」と詫びた。
「アンタとは最初から腐れ縁だったからね。一応、言っておこうと
思ってさ」
「何の話だ」
「今度のげぇむは、私のぷれい屋が勝たせてもらう」
 不壊は、ぴくりと細い眉を上げた。
「随分、自信があるみてェだな」
「あるよ」
 あっさりと、ウタは認めた。
「言っただろう?あの子は違うって。特別なんだ。……それに、
アタシも胆を決めたからね。もう、今までのアタシじゃない」
 そこで一度ウタは黙り、それから、突然妙なことを言い出した。
「影は、サイタイ」
「……?」
「臍帯。へその緒のことさ。アタシら個魔と、パートナーである
ぷれい屋は、影というへその緒で繋がれた、母親と胎児みたいな
もんなんだ。母親がお腹の中で、臨月まで子供の命を守るように、
個魔は自分の体を張って、ぷれい屋を守る。そうしなきゃ子供は
……ぷれい屋は生きていられない。アタシが胆を決めたっていう
のは、そういうことだよ」
「くだらねェ」
 不壊は吐き捨てた。
 自分の腹の中で、命を守るだと?
 気色の悪い話だ。考えただけでぞっとする。
 ウタは女だから、そういう発想をするのだろう。男の自分には、
多分一生判らない感覚だ。
「俺たちはクソ逆門に無理矢理掻き集められたはぐれ者の妖だ。
ぷれい屋が優勝してくれりゃあ自由になれるし、負けたらげぇむを
続けるだけだ。それ以外に何があるってんだ」
 背中で、微かに笑う気配があった。
「アンタは、まだ、こんな風に思える相手に出会ってないんだよ」
「お前は、出会ったってのか」
「ああ。マサトが、そう」
 ウタが自分のぷれい屋を名前で呼ぶのも、初めてだった。
「アタシは、あの子のためなら何だってする。あの子が望むなら、
世界中の全てを敵に回したって構わない。個魔は『個』魔。たった
一人のための存在なんだ」
「つくづく、くだらねェな」
 不壊は繰り返し、ウタはまた、背中で笑った。
 ふっと、彼女の気配が薄れる。移動するらしい。
 消え際に、言った。
「不壊、これだけは覚えておきなよ。
個魔とぷれい屋を繋いでいるのは、撃盤の契約じゃない。互いの目
的のためでもない。アンタも判るさ。本当に、自分の全てを賭けて
も良いと思えるぷれい屋に会ったらね」
 完全に、気配が消えた。
「……判らなくて結構だ」
 聞く者のいない言葉を呟きながら、ウタを変えた、そのぷれい屋
に会ってみたいと思った。

 
              ×   ×   ×


「ウタ。どこに行っていたの?」
 眩しい陽射しの中に飛び出すなり、少年の声に迎えられた。長い
髪を一つに束ねた、優しげな面立ちの少年が、駆け寄って来る。
 ウタの白く冷たい貌に、柔らかな笑みが浮かんだ。
「正人」
 少年の名前を呼ぶ。ただそれだけで、心が蕩けそうになった。
「聞いてくれる?撃符の使い方を、僕なりに考えてみたんだけど
ね……」
 ウタがいない間も、ずっと妖逆門のげぇむのことばかり考えてい
たのだろう。
 誰よりも純粋に、このげぇむを愛し、楽しんでいる少年。
 勝たせてやりたい。この子の願い事なら、何でも叶えてやりたい。
「……ウタ」
「なあに?」
 夢中で撃符の話をしていた正人の顔が、ふと、曇った。
「どうしたの?」
 身を屈め、覗き込む。正人は、ウタを見上げ、聞いた。
「ウタは、僕を一人にしたりしないよね?ずっと傍にいてくれる
よね?」
「ええ、勿論」
 微笑で応える。
「本当に?」
「本当よ。どうして、そんなことを聞くの?」
 正人から、視線を逸らせない自分に気付いた。
 静かな瞳から、目が逸らせない。
 正人の唇が、動いた。
「僕が、妖逆門に勝っても?」
「妖逆門に……」
『それは、駄目』。その言葉が、喉元まで出掛かって、つかえた。
 妖逆門に勝ったぷれい屋は、願い事を叶えるために、現実世界へ
戻される。
 個魔は、彼らについて行くことは出来ない。
 正人は、げぇむに関わる一切の記憶を失くし、一緒に過ごした
時間も──ウタの存在も忘れる。
 忘れてしまう。
「一緒に、いてよ。ウタ」
 正人の声が、目が、縋りついた。
 離れたくない──手放したくない。
 微かに身震いし、ウタは頷いた。
「ええ、いるわ。貴方が望むなら望むだけ、私は正人と一緒に
いるわ」
「良かった……!」
 抱きついて来る少年を撫で、抱き締め返す。
 愛しい。
 誰よりも愛しい子。
 この少年のためなら、何もかも捨てる。世界の全てを犠牲にして
も、この子の願いを叶えたい。
 
 例え──
 例え、へその緒で繋がれ、永遠の臨月を過ごすことになったと
しても。

 後悔は、しない。


                            了
                  


2007.2.15
三志郎と不壊のペアとは対照的な存在として、正人とウタの話を
書いてみました。(テレビでウタの話をやるみたいなので、その前に
上げてしまおうかと…笑)
不壊はこの何十年後かに、兄ちゃんと運命の出会いをするのです。
でも、こういうウタの愛情は、三志郎も不壊も「何か違う」と思うんだ
ろうな。