2×2〜 繋いで手〜



 迂闊だった。ここ最近、月末の買い出しに当たらなかったの
で、失念していたのだ。
 こめかみに触れる。冷たい汗が浮いていた。
 人ごみは苦手だ。こういうのを、トラウマというのだろうか。
嫌な出来事を思い出してしまう。
 誰にも──不壊にすら、話したことはないけれど。
 タイムセールが始まるのか、スピーカーが割れた音を撒き散
らしている。
 そろそろ三志郎も戻って来る頃だ。早めに引き上げよう、と
彼の姿を探したが、見当たらなかった。
「三志郎?」
 人波をすり抜け駆け寄って来る赤いキャップを探して、視線
を巡らせる。やはり、いない。
 胸の中で、不安が膨れ上がった。はぐれてしまったのか。
 どん、と誰かが肘にぶつかった。
「あ、ごめんなさい」
 女の声が通り過ぎて行ったが、応える余裕もなかった。
 何もかも押し流すような、見知らぬ人の波。止まらない。
 立ち止まっているのは、フエ一人だ。心が、どこか遠くへ押
し流されてしまう。
「三志郎……!」
「フエ!」
 ぐっと左手を掴まれた。温かい手の感触に、振り返る。鼻の
頭に汗を浮かべ、三志郎が立っていた。三温糖を一袋、掴んで
いる。彼は、空いた方の手で、ごめん、と謝る仕草をした。
「悪ィ!すぐ近くでタイムセールが始まっちまってさ、全然身
動き取れなかったんだ。月末セールになんて、来るもんじゃねェ
な。体がいくつあっても足りない……フエ?」
 怪訝そうな顔をする。
「すげェ顔色悪いぜ。具合、悪いのか?ひょっとして、また胃
が痛むんじゃないのか」
 三志郎が離しかけた手を、フエは、素早く握り返した。
「フエ?」
「どこも痛くない。もう、大丈夫だ」
 お前が、来てくれたから。
 心臓を押しつぶすほど膨れ上がっていた不安は、嘘のように
消えていた。握った手が、心地良い。
 指と指を絡めるように握り直すと、三志郎の頬に僅かに血が
昇った。
「早く帰ろうぜ」
 三志郎は言い、レジに向かって歩き出した。
「手、離すなよ。はぐれると、厄介だからな」
「ああ」
 三志郎に手を引かれて歩く。混雑はますます激しく、何度も
人にぶつかったが、もう辛くはなかった。
 三志郎が、ふと肩越しに振り返り、にっと笑った。
「腹減ったな。帰ったら、何か食わしてくれよ。フエ」
「……夕飯が入らなくなるぞ」
「甘いな。育ち盛り舐めんなよ。一日六食だって足んねぇぜ」
「それは食べ過ぎだろう」
 三志郎が笑う。つられて笑いながら、いつの間にか、傷口が
洗い流されていることに気が付いた。

                × × ×

「トラウマ?」
 三志郎(弟)は、たった今聞いた不壊の言葉を鸚鵡返した。
 いくら国語と算数と理科と社会で立て続けに赤点を食らった
身でも、『トラウマ』の意味くらいは知っている。
 だからこそ、鸚鵡返してしまったのだ。不壊は、フエについて
話す中で、この言葉を使った。
「フエが?」
「そこまで大層なもんじゃないんだろうけどな」
 カウンターに頬杖をつき、不壊は応えた。
 勉強をみてやると言ったくせに、広げたノートには先刻から
一瞥もくれていない。


                            (続く)



2010.10.12
手フェチとしては、「手を繋ぐ」という行為に、非常に深い官能
を覚えます……。