たまゆら〜プロローグ〜

 コー……ン……

 微かに、瑠璃が触れ合うような音がする。
 高く、低く。近く、遠く。
不思議な音色だった。
 ねっとりと肌に纏わりつくような、深く濃い闇の中で、
不壊は閉じていた瞼を上げた。
 人外の者であることを示す、紅い瞳。
 常ならば沈鬱な翳りを帯びているそれは、しかし今は、
激しい感情に煌いていた。
「どういうつもりだ」
 怒りを押し殺し、問う。
 闇の奥から、静かな応えがあった。
『用があるから呼んだに決まっているだろう』
 聞き覚えの無い声だった。女とも男ともつかず、奇妙
にひび割れている。
『《コワレズ》の不壊。お前に一つ、頼みがある』
 不壊は眉を顰めた。
「寝込みを襲って無理矢理妙な空間に連れ込んでおいて、
頼みだと?ふざけるな」
 相手が、小さく笑った。
『それは悪いことをした。お前を連れて来るのは、使い
魔に任せていたのでな』
 またどこかで、コーン…と音がした。
 相手が声を発する度、まるで引き合うように、あの音
が響き渡ることに不壊は気付いた。
 一体、あれは何の音だろう。
 それ以前に、この声の主は誰なのだろう。
 怪しみ沈黙する不壊に構わず、声は続ける。
『もうすぐに、妖怪も人間も、この世の全てを巻き込ん
だ面白いゲームが始まる。お前には、それに協力しても
らいたいのだ』
 不壊は鼻で嗤った。
「ゲームなんかに興味はねェよ。しかも、こんな真似を
されたんだ。協力なんざまっぴらごめんだ。他を当たる
んだな」
 踵を返そうとして、違和感を感じた。
 体が、動かない。
 いや、動かないのではない。動かしている実感が、ま
るで無いのだ。
 右手に視線を落とす。だが、そこにある筈の手は見え
なかった。あるのは、周囲と同じ、闇だけだ。
 足を動かそうとした。実際に動かした──つもりだっ
た。
 動かない。何かに囚われているのだろうか。だとした
ら、拘束されている感覚がある筈だ。
 それすらも感じないとは。
『今頃、気付いたか。意外に鈍かったな』
「……貴様……何をした!」
 初めて、恐怖を感じた。
 これまでに遭遇して来た妖とは違う。
 全く得体の知れない相手に、本能が怯えた。
『大したことではない。お前と取引をしようと思ってな』
「取引?」
 鸚鵡返した不壊の前で、突然、縦に闇が裂けた。同時
に、あの音が、一際高く鳴り響く。
「……!」
 不壊は目を見開いた。
 そこに現れたのは、青みを帯びた巨大な水晶の塊だっ
た。不思議な音は、その水晶が立てていたのだ。
 だが、不壊が衝撃を受けたのは、音の正体ではなかっ
た。
 掠れた声が漏れる。
「どうして……」
 呆然と、不壊はそれを見上げた。
 水晶の中身──内側に閉じ込められたもの。それは
あろうことか、不壊自身の体だったのだ。
『驚いたようだな。流石のお前も、これでは逆らえま
い?』
「貴様!」
 叫ぶ不壊の上で、愉快そうな声がした。
『悔しいか。だが、今のお前に、何が出来る?体が無く
ては、私を殴ることも、ここから逃げ出すことも出来な
いぞ』
 不壊は、見えない相手を睨み据えた。この場で引き裂
き、殺してやりたい。
『この水晶は、私が作ったものだ。故に、私にしか扱え
ない……どういう意味か、判るな?』
 中の不壊の体ごと水晶を粉々に破壊するのも、無事に
体を取り出すのも、声の主しか出来ないというわけだ。
「……取引というのは、何だ」
 満足そうに、声が応えた。
『漸く話を聞く気になったか。そう……お前には、先刻
話したゲームの中で、大切な役目を果たしてもらいたい
のだ』
「貴様の使い魔にでもなれと言うのか」
『そんなつまらん仕事ではない。《コマ》さ』
「駒?」
『《個魔》だ。ゲームに参加するのは、非力な人間ども。
奴らを助け、導き、ゲームを進めさせる、パートナーと
して動いてもらいたい』
「人間のパートナー……」
 屈辱だった。人間に極めて近い姿形をとっている不壊
の種族もまた、妖であり、人間は自分たちの存在を脅か
す敵に当たる。
 その敵に手を貸せ、とは。
 迷う不壊に、声は言った。
『無事に体を返して欲しければ、大人しく言うことを聞
け、不壊。間もなく妖世界の全てが、我々の手に落ちる。
お前一人逆らったところで、どうなるものでもないぞ』
 『我々』という単語を、不壊は聞き逃さなかった。こ
の──もしかすると人間よりも忌まわしい──敵は、
一人ではないのだ。
 水晶を見上げる。
 目を閉じて俯き、眠っているかのような自分がいた。
 従っていれば、いずれ取り戻す機会もあるだろう。
だがそれは、今ではない。
「……いいだろう。協力してやる」
 そう口にするなり、不壊を包む闇が弾けた。青白い火
花が散る。
 不壊は、息を呑んだ。
 闇の中から、失っていた筈の輪郭が現れた。
黒いコートに包まれた肩が、腕が、脚が──長くうね
る銀色の髪が戻って来る。
 だが、それは酷く頼りなく、ともすればまたどこかへ
消えてしまいそうだった。
『仮の器だ。元の輪郭のみで、中身はない。どんな姿に
も形を変えられるし、何しろ軽いぞ。どうだ、便利だろ
う?』
 声の主が、嘲笑う。
 不壊は、白い手袋を嵌めた両手を見詰めた。
 いつか必ず、この手で殺してやる。
『お前がサポートする人間が、件のゲームに勝ったなら、
体を返してやろう』
「勝ったら、か。では、負けた時はどうなる?」
『どうもならんさ。お前の体は永久に、ここに囚われた
ままだ』
 不壊は、口端を歪め、嗤った。
 つまらない話に巻き込まれたものだ。まんまと連れ去
られた我が身が情けない。情けなくて、涙が出そうだ。
「判った。じゃあ、聞かせてもらおうか。そのゲームっ
てやつが、どんなものなのか。そして、上がった先には、
何があるのかを……な」


             ×  ×  ×


「……エ!不壊!」
 三志郎の声に、うとうととまどろんでいた不壊は、はっ
と目を覚ました。
 嫌な夢を見ていた。正確には、夢ではなく、はるか昔
の記憶だ。
 視線を巡らせる。
 古い木目の浮いた天井と、漆喰の壁。壁の柱時計が、
ボーンと一つ、音を立てた。──1時。
 少し仮眠を取らせてもらおう、と、三志郎が頼み込ん
で泊めてもらった民家だった。
 するりと影から抜け出し、姿を現すと、覗き込んでい
た三志郎が、ホッと安堵の息を吐いた。ごろりと仰向け
に布団に転がる。
「良かった……呼んでも全然返事がないから、心配した
んだぜ」
「おいおい、兄ちゃん。用が無いなら、たまにはゆっくり
眠らせてくれよ。それとも何か?怖い夢見てトイレに行け
なくなったとか言うんじゃねェだろうな?」
「馬鹿、そんなんじゃねェよ。そうじゃなくって……」
 不壊の腕を掴み、顔を見上げながら三志郎は言った。
「一緒に寝ようぜ」
「やっぱり怖い夢……」
「違うっつの!折角布団に寝られるんだからさ。いっつ
も影の中で寝てたら、窮屈じゃねェ?」
 実体がない不壊にとっては、狭い広いは関係ないのだ
が。
「な?いいだろ?」
 返事を待たず、不壊を引き寄せる。
 駄々を捏ねる子供には適わない。ダメだと言っても、
夜通ししつこく絡まれそうだ。
「ったく……今夜だけだからな」
「おおっ、やりぃ!」
 根負けして布団に転がった途端、ギュッとしがみつか
れた。
「こら、ひっつくな!」
 ふざけているのかと思ったのだが、違った。引き剥が
そうとした手を、不壊は止めた。
 独り言のように、三志郎が言ったのだ。
「何で、空っぽになっちゃったんだろうな……?」
「兄ちゃん?」
「どうすれば、不壊の躰に触れるんだろう?」
 コートの袷から、三志郎の手が忍び込んで来る。彼の
指は、そこにある筈の胸ではなく、暗い闇を探った。
「不壊のコートの中、俺は好きだよ。いっつも俺を守っ
てくれるあったかい暗闇だから。でも……」
 ぼそぼそと三志郎が何事か呟いた。
「何だって?」
 聞き返す。と、やにわに三志郎が顔を上げた。
 精一杯伸び上がり、不壊に口付ける。唇が触れるだけ
の幼いキスだった。
「……!」
「おやすみ!」
 絶句する不壊に照れたように笑い、三志郎は不壊の胸
元に鼻先を埋めた。
 すぐに、呼吸が軽い寝息に変わる。
「……ちょっと、苦しいんだけどな……」
 三志郎の腕がきつく巻き付いて、身動き出来ない。苦
笑しながらも、その腕からすり抜けようとはせず、不壊
は少年の背中を抱いた。
 ──どうすれば、不壊の躰に触れるんだろう?
 今は水晶の中に眠る、本当の躰。
 あれを取り戻せば、三志郎の望みは適う。
 だがそれは、ゲームの終わり──彼との別れの時だ。
 三志郎の固い髪に顔を寄せる。
 一人迷う不壊の脳裏で、あの暗闇の中で聞いた、青い
水晶の音が甦り、響いた。


                            了
                  


2007.1.9
逆門に体奪われた時って、どんなだったんだろー?
と思いまして。本編は6月に出します。そっちは18禁で
フエ受難…子供だと思って甘やかしちゃイケマセン。
ところで「夜想う」といい、三志郎様よく寝てらっしゃる…。