江戸ポルカ V


〜 12〜

 動きたいか、と訊かれ、きみどりは頷いた。
 老人から聞かされるまでもなく、その木と自分との間に、何
か太い繋がりがあることは感じていたから、離れることはまる
で木を裏切ることのようで気が引けたけれど、それでもやはり、
自由になりたかった。
 一人は嫌だ。
 里に下りて、人と交わりたい。
 あるいは──もし自分が妖と呼ばれるものならば──妖たち
の世界へ行きたい。そうも願った。
 ──すまんが、儂にそこまでの力はない。ただ、お前さんが、
この里山を自由に歩き回れるようにしてやることは出来る。
 老人はそう言って、木の根元に何かを埋めた。
 一体どんな術を使ったものか、彼の言葉どおり、きみどりは
里まで下りることが出来るようになった。
 幸い姿は人間と変わらない。これなら、人に混じって暮らせ
ると、きみどりは喜んだ。
「でも──」
 きみどりは、暗い目をした。
 そのまま人に混じっていれば、こんな山奥に一人で住んでい
るわけがないのだ。
「人とは、暮らせなかったんだね」
 正人の問いかけに、きみどりはこっくりと頷いた。
「里の人たちは、皆、私がどこから来たのか知りたがった。山
から、と答えると、誰の子か聞かれた。子供が一人で山にいら
れるはずがないって……人を惑わせる化け物だって、皆、私を
嫌がった」
 燃える囲炉裏の火が、きみどりの瞳を彩った。怒りと悲しみ
が、そこにあった。
 泣きながら山に戻って来たきみどりを哀れに思ったのだろう
か。雪神が与えてくれた家で、彼女はひっそりと暮らした。何
年も、何十年も、たった一人きりで。
 その孤独を思うと、正人の胸は痛んだ。
「つらかったろうね。里の連中は、酷いよ」
 正人は、「そうだ」と明るい声を出した。
「僕が『くらぎ』を手に入れたら、一緒に里に下りよう。君を
つらいめにあわせた里の奴らに、仕返ししてやるんだ」
「仕返し?」
 きみどりが眉を寄せ、僅かに身を引いた。
 人間と言えば、いじめられた覚えしかないのだ。きっと、里
に行けばまたいじめられると、怯えているのだろう。
「大丈夫、こっちにはくらぎがいるんだ。怖いものなんかない
よ。それに、今度は、僕も一緒だ」
 きみどりの表情が、明るくなった。
「正人が?一緒に里に行ってくれるの?」
「もちろんだよ。さっきも言ったろう、僕たちは友達だって。
友達が酷い目にあわされて、黙っているわけにはいかないよ」
「友達だから?」
「そう。友達だから」
 そうして、早朝から正人ときみどりは、くらぎを探して山に
入ったのだった。
 目が痛いほど眩しい、真っ白な雪を踏みしめ、二人は歩き続
けた。
 その間に、正人はきみどりから、色々な話を聞いた。山の暮
らし、山に住む獣たちのこと──そして、妖のこと。聞けば聞
くほど、正人は話にのめり込んだ。
「やっぱり凄いや。君は、色んなことを知ってるんだね」
「そんなことないよ。私が知ってるのは、私が住んでいた小さ
な世界のことだけ。正人は江戸にいたんでしょう?今度は、正
人が知っていることを教えて」
 何気ないきみどりの言葉が、胸を刺した。
 江戸にいたといっても、正人が知っているのは、いつも寝て
いた部屋のことくらいだ。話せることなど、何もない。
「僕は、何も知らないんだ」
「正人?」
 体が弱く、力もなく、ただ、屋敷に閉じこもっている自分には
外の世界は見えなかった。
 唯一、新しい世界を見せてくれたウタは、正人が弱かったせ
いで、重馬に連れ去られた。
 弱いから、いけないのだ。
 強くならなければ。そのために、ここまで来たのだ。
 最強の妖くらぎを探し出し、強くなって、重馬からウタを取り
返す。
 そうすればきっと、正人の世界は広がる。その時初めて、き
みどりにも色々な話が出来るだろう。
 雪の中で、正人は立ち止まった。
「もう少しだけ、待っててくれ。あいつ──華院重馬さえ倒せ
ば、僕の世界は変わるんだ」
「正人……」
 不安げに眉を寄せたきみどりを置いて、正人は、再び歩き出
した。時間が惜しい。一刻も早く、くらぎに辿り着かなければ。
 きみどりも、黙って歩き出す。また、案内役の彼女が先に立
った。
 更に雪山を行くこと小半刻、きみどりの足が止まった。
「正人」
 正人も足を止め、顔を上げた。
 振り返ったきみどりの肩越しに、ぽっかりと空いた、黒く大
きな口が見えた。
「きみどり……」
 きみどりが頷く。
「くらぎは、あそこにいる。大昔、封じられた時から、ずっと」
 正人は、ゆっくりと洞窟の入口に近付き、中を覗き込んだ。
 闇の奥から吹き出す風が、ふぅっと顔を撫でる。外気の冷た
さとは違う、生温かい、まるで何か生き物の息吹のようだった。
腐った魚のような臭いが混じっている。
 小さく、怯えたようにきみどりが訊いた。
「……行くの?正人」
「行く。そのために、僕は来たんだ」
 正人は、古の妖に続く穴の中へ、一歩、足を踏み入れた。


                            (続く)


2010.11.14 up